最初に赴任した中学校は、合唱コンクールが盛んだった

中3は、特に毎年盛り上がる行事だった

芸術的というよりは、まず、声を出すこと

ちょっと荒っぽいが、大声で歌えることが

優勝への最低条件だった

音楽の指導は音楽の先生

声を出させるのは担任の仕事、とばかり

若い教員は必死になっていた

ありとあらゆる手段を使って

やる気のない(?)生徒たちも

やるしかない、他に選択肢はないという雰囲気だった

練習に使っていたラジカセを

放り投げて壊した先生もいた

今なら、あんなことはしないだろう、と思うことをやっていた

楽しかったし、燃えた

もちろん、生徒たちも次第に燃えていった

 

課題曲と自由曲とあり、どの曲を選択するかは

非常に重要なことだった

コンクールで上位を取りやすい曲、というのがあった

審査員も専門家ばかりではないので

感動する歌詞やメロディー、ハーモニーがある曲が人気だった

5組は抽選で『一つの朝』という名曲をゲットした

 

その時は、正規の音楽の先生が産休に入られていて

音楽は代替の先生や講師の先生が担当していた

私のクラスは、そのころあまりまとまりもなく

音楽の授業にはまじめに取り組むことも難しかった

合唱コンクールが近づくにつれ、

音楽の先生にも焦りが見られるようになり

ある時、担任の私に「5組は自由曲を歌えないかもしれない」と

相談があった

まじめに取り組めていないので、難しい合唱を

完成させることができなそうだと

 

そこで、私は学級の生徒たちと相談した

歌が難しすぎる、と、自分たちの努力の足りなさを

曲や音楽の先生のせいにしようとしていた

 

それなら、曲を変えるか?

他の曲なら何がいい?

そんな話し合いが始まった

なかなか埒が明かなかったので

私は、勇気を出して一つの提案をしてみた

「私の作った歌を歌ってみる?」

 

教員になる前に録音したテープを持ってきて

クラスで聞かせてみた

コンクールの日まで時間がない

最終的に、もともとの曲の練習を続けるか

ここから、別の曲にするか決断する必要があった

 

クラスの生徒たちにアンケートを取った結果

6:4で私の作った歌を歌おうということになった

この結果は象徴的だった

当時の私の信頼度が、ちょうどそれくらいだったということだ

 

それから、オリジナルの歌を合唱曲に書き直すのを

学校にいた講師の先生にお願いした

オリジナルとは雰囲気が変わったが、

合唱できる歌に生まれ変わった

ピアノの伴奏譜も作ってくれたので

クラスのピアノを弾く生徒に頼んだ

彼女は課題曲の、難しいピアノ伴奏を弾きこなしていた

しかし、受験の近づく秋に

新しい曲の練習なんてしている暇はない

「私には、弾けません」

さて、困った 今更どうしよう?

 

そこで、伴奏は私が担当することになった

本番までに必死に練習した

 

この合唱の取組を通して、クラスがまとまり

みんなで一つの目標に向けて頑張り、

何かを成し遂げる経験をさせたかった

スタート時点で、4割の生徒が反対していた曲に取り組み

すべてが終わった後、この歌を歌って

良かったと言ってくれる生徒が

どれだけ増えるかが、一つの賭けだった

 

作ってもらった合唱では、ほかの名曲と

あまりにも差が付きすぎてしまう

練習の途中から、最後の部分を新しく作って

付け足して、盛り上がりを増すことにした

 

指揮は、私が傷つけた生徒が担当した

 

 

並行して、課題曲の練習も進めていた

こちらは、合唱の名曲『大地讃頌』だ

この歌を、生徒たちに理解させるために

徹底的にアナリーゼを行い、

曲の意味とイメージを植え付けることに力を注いだ

家にあったマンガ「ガラスの仮面」の一部を

コピーして、全員に配ったりもした

さらに、歌の前に、イメージを膨らませるために

呼びかけの部分を付け加えたりした

 

ようやく、5組の生徒たちも本気になり

コンクールに向けて、みんな必死になりかかったところで

本番を迎えることになってしまった

 

初めの頃の練習が思うように進まなかったのが

最後までたたり、結局本番で

100%の力を発揮することができなかった

それでも、クラスの気持ちはずいぶん変わった

コンクールで入賞はできなかったが

生徒たちの顔はまんざらでもなさそうだった