Ginko in the University of Tokyo (Dec. 6th)

 

 

数年前の正月、

スウェーデンの精神科医

アンデシュ・ハンセン氏の書いたベストセラー

「スマホ脳」を読んだ

ハンセン氏によれば

人類は地球上に誕生して99.9%の時間を

狩猟・採取をして生活していたので

私たちの脳は、今でも当時の生活様式に最適化されているという

現代社会での生活に問題とされることの原因が、

その事実に隠されていることもあるという

 

「生き延びるためには

食べられるときにカロリーを摂取しようとする

脳はカロリーを見ると

『すぐに口に入れろ! 

明日にはなくなっているかもしれないぞ!』

と叫んでいるようなものだ」

これが食物の豊富な現代にも起こっていて

肥満・過体重を引き起こしている人がいる

 

同様に、精神面でも脳は現代に適応できていない

狩猟時代には、人間は常に危険に対する不安を感じ

危険を避けるために入念な計画を立てていた

そうやって生き延びる確率を高めてきた

「常に周囲を確認し、

異常なほど活発で、

すぐに他の事に気を取られる

かつてはそんな性格のおかげで

危険を速やかに避けることができた

しかし、今では、そんな衝動や感情のせいで

集中できないでいると

教室でじっと座っているのが困難な子だと思われる

そして、ADHDの診断が下るのだ」

とハンセン氏は書いている

 

 

 

現代の生活様式に当てはめて

落ち着きのない子、というレッテルを張られる子たちは

人間として、むしろ生存のために

必要な能力を有した存在?

そうとらえなおしてみると、同じ子どもの様子が

全く別のものに見えてくる

「発達障害」というのは

極一面からの捉え方に過ぎないということがわかる

 

「悪いのは、その子なのか?

その子をとり囲む環境なのか?」

ここ数年、そんな思いが頭から離れない

 

実際、その子自身の「困り感」というのは

その子の置かれた環境によって

限りなくゼロにも近づくこともあるし、

100%になることもある

同じ子どもでも、この担任のクラスでは

手をつけられない問題児になるが

こちらの担任のクラスでは

一瞬、どこにいるかわからない位

特性が目立たなくもなる

 

悪いのはその子なのか?

その子をとり囲む環境なのか?

 

大阪・大空小の初代校長・木村泰子先生は

変わらなければならないのは

その子自身ではなく、周りのほうだということで

環境を整えることにチャレンジした

そうして「みんなの学校」を作り上げた

和歌山の「きのくに子どもの村小・中学校」では

服薬をやめることが入学の条件にもなっているという

 

 

現代の様式に合わせることが

その子の幸せという考え方も、当然ある

環境を変えるというのは、あくまで「理想」なので

現実的には、適応させてあげることが幸せだと

 

日本は、この辺りの捉え方も

まだ随分遅れているため、

子どもを見る専門の医師もほとんどいないし

いる医師も、今の価値観で治療を行うわけで

それが10年後、20年後の常識であるとは限らない

とりあえず、現在の医学では

障害となる特性を緩和するため

薬を処方するしかない

そして、この「薬」が

現代的に言って、「かなり効く」(こともある)

 

 

秋の宿泊行事で

高熱を出した子を病院まで連れていった

高熱外来に案内され1時間以上待たされ

やっと診察をしてもらえた

医師は熱と症状の問診をして

検査をするか、意思確認をして

コロナとインフルエンザの検査をした

結果が出るまでに時間がかかるので

熱冷ましだけ処方してもらい宿に戻ることになった

後で電話があり、インフルエンザに感染していると言われた

さらに医師は

インフルエンザの薬を処方することもできるが

症状は軽症(主な症状は発熱)なので

このまま安静にしていれば、数日で良くなる

薬は慎重に考えて、これ以上ひどくならなければ

飲まなくて良いだろうと言った

 

苦しみや痛みを緩和し

体の負担を減らしながら

自然治癒力の働きを助ける

それが薬の役割だ

薬そのものが病気を治しているわけではなく

自分の体が自分自身を治している

人間の優れた自然治癒力を信じ

子ともにとって毒にもなりうる薬は

盲信しない方がよい、という現代医学は

ちょっと意外な感じで

感心してしまった

 

 

発達障害は病気ではない

現代医学では、

それが脳の機能の特性であることがわかっている

環境に適合しているぶんには

さほど問題にはならないが

その特性が、社会生活を営む上で

本人の困り感になるとき「障害」となり

本人も、回りの人も苦しむことになる

(英語では、これをdisorder (不均衡)と言い

児童精神科医の佐々木正美先生によると

「障害」という訳語をつけたことが

誤解を招いているという)

 

他の人と同じことをしなければならないと

特性によりうまくいかなくなり

マジョリテイ側からは「困った人」と思われる

注意されることが多くなり

叱責され、排除され、いじめられることになりやすくなる

自分自身でも、理解できない

ネガティブな攻撃を受け続けるうちに

自己肯定感が下がり、人生に前向きになれなくなる

 

今、「困った人」は

自分自身が「困っている人」なのだということが

少しずつ社会にも認識されるようにはなってきたが

それが当事者の困り感を

緩和できるほどのものにはなっていない

 

薬は、その脳の特性に働きかけ

特性を目立たなくさせるもので

特性そのものが消滅したり、変化したりするわけではない

 

確かに、じっとしていられずに

始終動き回って、回りの子にちょっかいを出していた子が

投薬により、劇的に動き回ることが少なくなる場合もある

注意されることもなくなり

回りの人たちから疎まれることも減り

本人の困り感が解消されることもある

それを見て、安易にそこにすがりつきたくなる

大人たちがいる

 

しかし、薬は万人に同じように効くわけではなく

さらに、本人にとっては

自分でなくなる、という感覚をもつ人もいる

ボーッとする、眠くなる

だるくなるなどの声もよく聞く

 

動き回っていたずらする困った子だなあ

とはいえ、許容範囲かなと思っていた子が

服薬により、一日中居眠りをしているのを見たときには

本当にこれで良いのか?

この子はこれで幸せなのか?

誰のための薬なのだ?という

強いやるせなさを覚えた

 

「型」にはまらず、集団生活ができず

先生がコントロールできなくなると

その子の指導は「教育」の範疇ではなく

「福祉」や「医療」の問題だと、

かつて私自身も言ってきた

 

しかし、今、

 

「悪いのはその子なのか?

その子をとり囲む環境なのか?」

 

「薬を飲ませて、

おとなしくさせてしまって

それでいいのか?」

 

「私たちにできることは

他にあるのではないか?」

 

あの子たちとの関わりの中で

強く、そう思うようになってきた

 

そんな中

先日、困り感の人一倍強く

薬でもなかなか感情を抑えることができずにいる子が

私のところに来て

今日はお母さんがお仕事休みだから

学校から帰ったら、

近くの博物館に連れていってくれるんだ、と

照れ隠ししながらも、嬉しそうに話してくれた

 

そして翌日の朝も、私のところに来て

どんなに楽しかったか

うれしかったか

そこで経験してきたことを

得意そうに話してくれた

 

そして、その日一日

その子はこころがとても穏やかで

いやなことがあっても、

いつもみたいに興奮することはなかった

 

まだ、私たちに

できることはあるのではないだろうか?