(銀座 5/12)

 

今日は母の日だった

なぜか、毎年、この母の日に

努めている学校の同窓会が開かれるので

着任以来、母の日に母に会うこともできず

亡くなった妻の母の墓参りも行かれなくなってしまった

そして、昨年の母の日に父が他界した

 

父が亡くなって、1週間ほどして

妻方の叔父が亡くなった

父と同じ大工さんだった叔父だ

そして5月17日は、妻の父の命日だ

そんなわけで5月は娘二人の誕生日とあわせて

祈念日が多くなってしまった

 

そんなことがずっと頭の片隅にあったとき

私が師と仰ぐプレム・ラワット氏の講演の動画が

YouTubeにアップされた
動画のタイトルが"Understanding Death"というものだった
 

動画は以前に見たことのある講演を編集したダイジェスト版だったが

改めて、どっきりさせられたので

一度、きちんと訳しながら確認しようと思った

技術の進歩のおかげで

聞き取れない部分も、字幕で確認することができるようになった

 

さらに、ちょうどパソコンを立ち上げたら

偶然、普段使っているMicrosoftのEdgeの画面に

BingのチャットAIが立ち上がった

そうだ、と思い、試しに和訳させてみたらどうだろうということで

字幕を利用して書き取った英語を入力してみたら

かなり優秀な翻訳が瞬時になされた

それを使って、間違っているところやニュアンスの違ったところを修正し

言葉の選択を、私の感覚に直してみたら

なかなか、いいものに仕上がった

驚いてしまった

これまで、1時間くらいかかった作業が10数分で終わってしまった

 

 

ここに、少し紹介してみよう

 

「死を理解すること」(このタイトルは、講演の一部を切り取った部分に

後からつけられたもの)

 

結局のところ、毎日を生き、すべての瞬間を尊ぶ人は、

死を恐れることはありません。なぜなら、その人は、

このとてもシンプルなことを知っているからです。

この考えはある日私に来ました。
それはどれだけシンプルだったでしょう!
人々は私に電話をかけてきます。
ごく親しい人が亡くなる。今、死にかけている。
そう、電話をかけてきます。
私はホノルルにいました。(中略)
で、結局、非常に重篤な病気と診断された女性と話すことになりました。
彼女は私に会いたがっていたので、私は彼女に会って話しました。
「これくらいシンプルなことなんですよ、
『もし私がここにいないなら、私はどこか別のところにいるのです。』」
(中略)
あなたの答えは、「あなたがここにいない時には、あなたはどこか別のところにいる。」 
あなたがそれを理解できれば…。
深いですね。でも、それは信じられないほどシンプルなことです。
私は「私は、いる」の「私」を理解しました。
あなたが「私は、いる」の「私」を理解したら、
「私がここにいない時には、私はどこか別のところにいる」ということがわかります。
「な、な、な、な、何?」と、困惑している人がたくさんいますね。
 私は、たった今、あなたの問題、
「自分が死んだらどうなるのか」という問題を解決したんですよ。
だって、私がここにいない時には、私はどこか別のところにいるのですから。 
「私は、いる」の「私」は、壊れることのないものです。
そしてそれが、自己を知る、ということです。
「私」を理解するということ。
あなたはこれまで「私は、いる」という
パッケージ全体を理解しようとしていました。
あなたが死ぬと、もうあなたは「私は、いる」ではありません。
「いる」のほうは残ります。「私」のほう、それがここになければ、
どこか別のところに存在する。それくらいシンプルなことです。

(後略)

 

これは、すごいことだ

何か、覗いてはいけない秘密を見てしまったような

ドキドキ感が残った

 

実は、この話を聞く前に

他にも、思いがけない「視点」で見た話を

聞いたことがあった

そのいくつかは

プレム・ラワット氏のベストセラー

"Hear Yourself (How to find peace in a noisy world)"に

書かれている

 

勢いで、その記憶をたどって

もう一度本の気になった部分を探して

Bingを活用して、和訳してみた

 

一つ目は、私たちは何でできているのか、という

疑問に対する、科学的な見解だ

 

「私たちは、ただの進化の偶然か結果であると言う人もいます。

結局のところ、私たちの99%は酸素、水素、炭素、

カルシウム、窒素、リンでできています。 
これらの元素をボトルの中で混ぜ、

カリウム、硫黄、ナトリウム、塩素、マグネシウムを0.85%追加し、

最後の0.15%の少ない元素を追加したら…

それで人間ができるでしょうか? 

それで私たちの体を説明できるかもしれませんが、

私たちはそれ以上の存在ではないでしょうか? 

あなたはそのボトルの中身に恋をすることができますか? 

あなたはその元素のボトルに

美しさや家族について話しかけることができますか?」

次の二つは、聞いたとき「エッ? 本当?」と

思わずつぶやいてしまうようなものだった

この世にあるすべては、すでに「ある」ものでできていて

「無」から生まれたり、あるものが「無」になったりは

していないということだ


「赤ちゃんが7ポンドの体重で生まれたとき、

地球が7ポンド重くなりますか? 

その赤ちゃんが大人になり、200ポンドの体重で死んだとしたら、

地球は200ポンド軽くなるのでしょうか。

答えはいずれも「ノー」です。

これが私たちがいるところ ― 地球です。」

 

「インドの詩人カビアが、

私たちの普遍性をこのような言葉で表現しました。
「我々は皆、海の中に一滴の水があることを知っているが、

その一滴の中に海があることを知っている者はほとんどいない。」
またあの矛盾があります。「一滴の水の中に海?」 
少しの間、カビアの流れに身を任せて、

人類が水で、海の中の一滴として

一緒に動いていると想像してみましょう。

そして、その一滴一滴が、波から引き上げられ、

雲によって運ばれ、異なる場所―丘とか、平野とか、町―に落ちて、

旅の出発点に向かって流れ戻ります。

途中で、一滴の水は一緒になって流れを作り、

名と歴史を残す大きな川に成長します。

ミシシッピ川や、アマゾン川、ガンジス川、テムズ川、

ほかのすべての川が合流して海を形成し、

すべての海が一つになって地球を覆う広大で名前のない海になります。
これで旅は終わりでしょうか? 

いいえ、旅は再び始まります。

水のしずくが波から引き上げられます…。そうして旅は続きます。
そしてそのように、私たちの旅も続くのです。

私たちは一滴の水であり、一つの海でもあります。

地球は何十億年もその水をリサイクルし続けています。

この、水の絶え間ない始まりと終わりは、

終わりのない神聖なものの

アルファ(始まり)とオメガ(終わり)のようなものです。

そのプロセスは決して止まることはありません。」

 

 

 

宮沢賢治のように

死にゆく父に「怖がらなくてもいい」と伝えた

蝶がさなぎから抜け出て

飛び立つように、今、その古くなった体を出て

来たところへ帰るのだからと

 

そして、父が死んだとき

冷たくなった父の亡骸を見て

私は確かに、

これは父であって父そのものではない、という強い感覚をもった

 

 

ところで、先日

テレビを見ていたら、金子みすゞの特集をやっていて

みすゞの詩がいくつか紹介されていた

その中に、ラワット氏の「一滴の中の海」と同じ視点の詩があったので

びっくりした

 

 

「蜂と神さま」  金子みすゞ

 

蜂はお花の中に

お花はお庭の中に

お庭は土塀の中に

土塀は町の中に

町は日本の中に

日本は世界の中に

世界は神さまの中に

 

そうして、そうして、

神さまは

小っちゃな蜂の中に