令和2年1月15日(水)
東京芸術大学奏楽堂
令和元年度東京芸術大学大学院音楽研究科修士課程声楽専攻
学位審査会公開演奏会


県立の高校で声楽の勉強をスタートした我が家の次女
それから11年目になる今日
日本が誇るコンサートホールで
自分のための、自分だけのための、
最後の演奏会の機会を与えられた

マスターの学位の審査会として行われた演奏会は
まさに自分のための発表の機会だった
これまで学んできたことを
自分でどこまで表現することができるか
そしてそれが、いかに聴衆に届くものとなっているか
それを審査していただくための
自分だけのためのステージだ

奏楽堂のステージ中央には
ただ一つ、スタインウエイのコンサートピアノが置かれていた


午後の部、3人目のステージだったため
2人目のテノールの発表が終わった後
直前に休憩が入った

そして休憩の後、チャイムがなり、着席を促すアナウンスが入って
予定通り14時15分に演奏が始まった


 *****************


小さい頃、姉が地元の少女合唱団に入っていたのを見て
自分は歌が下手だから、と言っていたが 
ドイツの小学校に通っていた時に
学校の合唱クラブに入って
歌の楽しさに目覚めたらしい
6年生の時に帰国して、
中学に入ってからは学校の合唱部に入って
ほんの数名の部員と共に
本気になって打ち込んでいた
高校受験を前にして、
歌をやりたい、県立の音楽科の高校へ行きたいと言い出した
「音楽学校(「音高」などと言われているらしい)なんて
小さい頃からクラシックに親しみ、
3才からピアノをやっています、っていう人がいくところだ」という
私の偏見をよそに
娘は声楽コースを選んで受験した
まあ、受けてみてだめならだめで諦めもつくかと思ったところ
ほぼ定員数だけが受験した入試で合格してしまった

高校の説明会で、先生方が
「しっかりやっていれば芸大にも入れます」と話していたが
明らかに、周りに来ている保護者の雰囲気は
クラシック音楽で育ってきましたという感じだった
「だから、それは3才からピアノを習ってましたっていうお子さんのことでしょう?」と、私の疑いは晴れなかった

そのうち、新聞社が主催する全日本のコンクールなどに出て
予選を勝ち抜いたりしたので、あれ?っと思うようになった

大学は、我が家の経済事情からも
国立の東京芸術大学以外には選択肢がなかった
声楽のソプラノで合格する人は若干名
しかし、全日本のコンクール・東京大会で
上位の数名に入っていたということは
合格の可能性もあるかと、期待が高まった

その頃私は芸大のとなりの学校に勤めていたので
入試の結果を、ちょっと見に行くこともできた
そして、縁もあってかまさかのストレートで合格することができた
それからは、どんな勉強をしているのか
どんな課題と向き合っているのか
さっぱりわからない大学生活をおくり
あっという間に卒業してしまった
このまま終われない、ということで、大学院を受験したが
不合格に終わり、1年間芸大の別科生として浪人
翌年、大学院に合格して研究生活に入った(?)

それから3年
大学院の学費は出さない、という約束で
アルバイトもしながらの生活は
楽ではなかったろう
学費が払えず泣きながら貸してほしいと懇願したり 
時おり、お金があれば...という言い訳に
負けそうになっていたこともあったが
最終的に、今日の日を迎えることができた


この娘は、4人姉妹の中で一番私に似ている
顔が似ているだけでなく性格も似ている
(私も高校を卒業してから就職するまで7年間学生を続けた)
なかなか自分のやりたいことを
自信をもって表出することが苦手で
踏ん切りがつけられないうちに時間がたってしまって
結局時間切れになってしまうところなんかもよく似ている
だから、私としても若い頃の自分を見ているようで
もどかしくてたまらない娘だ

高校生の頃
上手に歌えるけれど、今一つ「突き抜ける」感じが足りない
そんな風に評されたりしたが、
私が聞いてもそんな感じがよくしたものだ
大学に入っても
それがなかなか越えられない壁だったが
人前でのパフォーマンスも数を重ね
さすがに舞台度胸もついてきて
ここ数年は、おっ?っというレベルになってきた
それは、ただうまく歌うというのではなく
聴く人に届けることができるようになってきたという感じだ
プロフェッショナルな演奏が
できるようになってきた、ということだ 
 

 *****************

今日は、院で研究してきたという
スウェーデンの作曲家の楽曲を演奏した
スウェーデン語(?)なので、歌っている言葉の意味は全くわからないが
歌声や表情で伝わってくるものは確かにあった

与えられた30分間で8曲の独唱を行った
伴奏は大学の先生なのだろう みごとにサポートしていただいた
とうとうここまで歌えるようになったんだ
あのころつき抜けられなかった壁は
ようやく突き抜けることができるようになったんだ
しかし、やはり、はじめて聴くスウェーデン語の歌は
日本人である私の心の深くにまでは届いてこなかった

しかし ー 

伴奏者と共に一度ステージを去り
再び登壇した時は
応援の演奏者を連れて出てきた
バリトン2人、テノール2人、アルト2人に助けられ
最後に歌った曲「スウェーデン」は
言葉の意味を越えて
ストレートに届いてきた
人間の声のもつ偉大な力を感じる素晴らしい演奏だった
素直に感動する歌だった


観客席には
審査の教授陣のほかに
私と妻と妹一人
そして、友達や音楽を愛する人たちが
100名くらいいただろうか?
大きな拍手をもらって
娘は最後のステージを終えた


芸大には、「芸大おじさん」と呼ばれる
音楽愛好家がいるらしく
今日もメモを取りながら演奏を聞いている人がいたが
演奏後、ロビーで数名の「おじさん」が娘に話しかけたり
写真を撮ったりしていた
午前中からなかなかあがらなかった雨もあがり
柔らかい光が芸大の奏楽堂にも射していた


(「芸大おじさん」たち)


この8年の間に
縁あって、副学長を勤めた故・松下功先生に可愛がられ
追悼会では遺稿の初演もさせていただいた
「障害とアーツ」では、声優デビューをさせてもらったり
いろいろな特別支援学校の子供たちに
音楽を届けにいかせていただいたりもした

近年では、自分達で立ち上げた
総合芸術として
美術部の学生も交えての
映像と生演奏の企画「SPICA」も好評を得ていた
私の小学校で行ったパフォーマンスでは
子供たちの感性に訴える驚くべき演奏を披露した






これでしばらくは
奏楽堂のステージに立つことはないだろう
ここから先は
自分自身で切り開いていく世界だ



おめでとう

これまでお世話になった皆さま
ありがとうございました



(上野のヱビスバーで
一人、乾杯しながらこれを綴る)