最後の旅行は妻の希望も叶えて
ローマ、バチカンに飛行機で行った
出発の日に
インド洋で津波が発生する大地震があり
気持ちが落ち込んだところに
デュッセルドルフに大雪が降り
危うく飛行機に乗り損なうところだった

イタリアの若者は子連れに優しかった

最終的には結構いい思い出をいっぱいもって
2005年の春
3年ぶりに日本に帰ってきた

引っ越しはまたまた大変だった
飛行機で持ち帰った荷物も
びっくりするくらいの量で
成田からは宅配を頼んだ

成田からタクシーで浅草まで送ってもらい
浅草から東武伊勢崎線に乗って
埼玉の自宅に戻った
私の両親が帰宅の準備をしておいてくれ
やたらに狭く感じる自宅に
3年ぶりに、「ただいま」を言った
4番目の娘にとっては初めての家だった

荷物を置いて、ホッと一息ついたかつかないかの
タイミングで、妻の兄が来てくれた
挨拶もそこそこで兄から
妻の母の病状がかなり悪いという話を聞いた


帰宅後のどたばたの中で
私はありとあらゆる手続きや車の購入を
全速力で進め、
妻は母親の看病に行っていた
その間子供たちは私の両親が見ていてくれた

義母は私たちの帰りを待っていたかのように
帰国後1週間で他界した
妻は最期に付き添うことができた


義母には申し訳なかったが
帰国までの過労に加え
帰国後すぐの看病疲れで
私は妻の体のことがとてもとても心配だった
義母が亡くなって悲しかったが
妻のことを思うとあれ以上長引かなくて
正直、ほっとした

新しい学校に赴任するタイミングで
弔休をとり、休みをもらうことになった
葬儀の間中、妻は気丈に働き
涙を見せたりしなかった
親戚がドイツで生まれた四女をみて
妻の幼い頃にそっくりだと一様に言っていた


私は思いを言葉にするように
努めていた
葬儀が一段落ついた夜、
なぜ私に悲しいとかつらいとかいう
感情を表してくれないのか
聞いてみてた

「悲しい?」

妻は、呆れた顔で
何もわかってくれないのね、
お母さん(私の母)はわかってくれたのに

もう話したくないという態度を示した



帰国後のしばらくの間は
妻はベッドに寝なかった
一階のソファで、小さくなって寝ていた



ドイツに滞在中、
学校の広報誌に投稿した私の手記を読んで
妻が激怒したことがあった
家族のプライバシーにふれたことについて
何でこんなこと書くの?
と言って、信じられないという感じで
怒ったことがあった

私がそれまで
自分の気持ちを文章にして
主に担任している生徒たちに
書き続けてきたことを
誰よりも知っていると思っていた妻が
見せた反応は、私には驚き以外の
何物でもなかった


こんなに側にいるのに
20年近くも愛しているのに
妻のことは何も理解できていないのだ
そういう恐るべき発見をしてしまった

そのために
私としては物凄い精神的な負担ではあったが
とにかく思いを言葉にすること
わからないことは言葉で尋ねること
まるで、小さな子供にでもなったかのように...


それに加えて
ドイツでは手に入らなかった
日本語の本を貪るように読むようになった
特に女性の書いた小説を
片っ端から読むようになった

その頃の人生の最大の目標は
妻のことを理解することだった

  (つづく)