私のエナジービッドWSを終えてよその国に出てみて始めて、自分の国の良さがわかると言う。
違うものに触れることで自分の持っているものに気付くということか。
ビッドはしきりにエネルギーを感じてと言っていた。
彼の言うエネルギーは大地から得て、体内で咀嚼し、排泄することで、また大地に還元していくサイクルのこと。
そうしたエネルギーを身体に通して動けと。
私にはこれが、何か引っかかってしまって、うまく飲み込めなかった。
ビッドの考えは一つの喩えであり、彼独自の動きの捉え方なんだと思う。
実際には動きが下から上へ、上から下へと身体を通して循環しているようなイメージを持てれば、ポンプでも、エレベーターでも良かったのかもしれないけれど、私はビッドの考えに沿おうと努めていた。
そして、WSを終えてから気付いた。
イメージとは私の中に存在しているものでしかまかなえないものだと。
そして、動きを助ける重要なアイテムだと。
想像はいくらも膨らませることができるけれども、濃くて、確かなものは、私が生きて、日々暮らしている毎日の中にしかない。
アスファルトの地面に囲まれて、スーパーに並んだ野菜を食べて、キレイに加工されて原形LINE 攻略を推し量ることのできない形でお肉を頂いてる私の日常からは、大地は遠い。
でも、そいう暮らしの中にもエネルギーはある。
あるから生きていけてる。
私にとってリアルなエネルギーは大地に培われた野菜や肉や魚という明らかなものではなく、もう少し別の形のエネルギー。
例えば、鴨川を自転車で走る時に感じる風とか、社寺の軒が作る稜線とか、街行く車や、駅でのせわしない通勤の人々の流れとか。
人工物が溢れる街の中で生まれるエネルギー。
私はそういう環境のなかで生まれて、育ってきた。
そしてこれからもそういう環境のなかで生きていく。
私を作っているもの。
その遠く、根本には大地もある。
でも私がリアルに感じられるエネルギーはこの街にある。
新旧問わず沢山の人工物が溢れる街のなかにこそ私の源が宿っていると思う。
そして私はそいうエネルギーを愛おしいと思うし、時にそれらは罪深いとも思う。
そういう人間の在り方を私は好ましく思うのだと、旅先で気付いたのでした。
