何と言うか…最近の人々は白黒思考と申しましょうか…。



考え方が極端から極端だと思う時があるのですよ。



例えばです。



善人だと呼ばれていた人が、たった一度でも過ちを犯してしまったら、その善人は悪人になるのでしょうか?




例えばです。



一生懸命に一つの事を調べ上げ、研究し、尊敬されていた人が、一度でも過ちを犯してしまったら、その研究は全て否定されてしまうのでしょうか?



もし、自分が信頼している人が黒を白だとでも言えば、白と言ってしまうのでしょうか?



その信頼している人が、黒を白と言った時、間違っていると思ったら、その信頼している人を信頼しなくなるのでしょうか?



肝心なのは、何故その信頼すべき人が誤った事を言ったのかを考える事です。



そこに心理と言うモノが隠されているからです。



とにかく、今の人達は考えると言う力が抜けています。



だから、学校の勉強だけしていて、教科書のない社会に出た途端に破綻してしまう確率が上がってしまうのです。



一言言っておくとだ、この世界に自分を導いてくれる教科書などと言うモノはないのですよ。



もし、自分の人生を導いてくれる教科書と言うものがあるとすれば、それは自分の心の中で、自分で作っていくしかないものなのですよ。



違いますでしょうか?



その心の中の教科書こそが、己と言う信念になるのです。



最近の人は、自身でしか作れない心の教科書が真っ白です。



もしくは、誰かの言葉を丸ごとコピーした借り物の教科書です。



だから、人に簡単に騙されてしまうし、簡単に信じてもしまうし、裏切られたとか思ってしまったり、ちょっとバカにされただけで、自分を全否定されてしまったとかって考えてしまいます。



つまりは信念と言う名の、心の教科書がないのですよ。



この言葉だって、俺が俺として、俺の言葉で書いています。



だから、俺の責任で書いています。



それが間違っていようが、あっていようが、心の教科書を日々の中で作って行く過程こそが人生だと俺は思っています。



間違った教科書を作ってもいいじゃないですか。何で間違った教科書を作らないと逆に言いたい。人の言葉や人生経験をロクに考えもせずに、まんま自分にコピーしている方が人間として、間違っていないと考えます。



その過程をさぼり、誰かの言葉を鵜呑みにし、その言葉を自分の心の教科書にコピーしていたら、それは自分ではなく、誰か他の人にしかならないのです。



人の言葉に感銘したり、共感するのは賛成です。



しかし、その言葉をしっかり自分の中で肯定と否定を繰り返し、自分自身を反映させていく過程を行わなければいけません。



このブログを読んで、心の教科書か…良い事言うな~とか思うのではなく、否定し、肯定するのです。



さらに付け加える事だって、2冊の教科書を用意することだって自由なのですよ。



ちなみに俺は心に3冊の教科書を作成しています。



何冊作ろうが勝手なのです。



誰か助けてくれる人を探すのは勝手です。相談も自由です。しかし、最後に決めるのは自分なのだと言う事を肝に銘じておかなければなりません。



それが出来ないのならば、きっと自分の人生を楽しめないと思います。




…ただ、基本的にきちんとしたモラルや道徳を見につけていないと意味がありません。



誰かの言葉に一喜一憂し、自分のやってきた事が認められないかもと言う不安は確かにあります。



それこそが人が抱えている悩みの本質だと思っています。



その悩みを抜け出したいと言うのであれば、自分でしっかり責任を最後まで持って、考えなさいと言いたいです。



そして、自分が行っている事に対し、否定されたからと言って投げ出すのであれば、それはその程度の信念でしかなく、幼稚なものであったと自覚して貰いたいです。



0か100でしか考えられない人が多すぎます。



50を知ると言う事も大事な事なのです。



50とは即ち、100に至る過程なのです。



白黒思考をしてしまいがちになる際は、2~99を考える努力をして貰いたいです。





真面目な話題になったので、おじさんが如何にOPを揉みたいかを記載していきます。



今朝、込み合う電車内で、僕の背中にOPが当たっていました。



これを聞いて「良かったですね」と思うかもしれません。



しかし、答えはNOです。



僕の心の中で大事な事は、そのOPの持ち主の年齢、容姿が重要なのです。



万が一にでも、ただの太ったオッサンのOPであった場合、どうでしょうか?



車内にいる間、ずっとオッサンのOPで「うふふ」ってなってしまいます。



これはもう、致命傷ですよ。



なので、どうしても後ろを向いて振り向き、確認しなければなりません。



そこまで「うふふ」を取っておかなければなりません。



結果的に、OPの持ち主の容姿は確認出来ませんでした。



その悔しさが、今日のブログにぶつけられていると考えて貰って結構です。



そのくらいOPが揉みたいのだ。