お客様で来てくれている中学生の男の子から、最近おじいさんが亡くなられたという話を聞きました。
ずっと嫌がっていた人工呼吸器の使用をしぶしぶ承諾した日、家族が家路についたあとで、ひとりしずかに病院のベッドの上で息を引き取られたそう。
「じいちゃん、おばけになって出るんだ」
「おじいちゃんは、自分が死んだって気づいてないんじゃないのかな。身軽になったから家に帰ってきたの」
彼は言います。
「お坊さんに聞いたら、怖がることないんだって。いまは帰ってきてるだけだから、葬式やったらこなくなるんだってさ。葬式やって、ちゃんと死なせてやるんだ」
正直、葬式なんて冗談みたいに高い金がかかるし、みんなでよってたかって好き勝手に泣いたり思い出話をしたり悪口を言ったりして、生きてる人間が納得するためのエゴなんじゃないかと思っていました。故人も折角きもちよく死んでいるのにさぞ迷惑なことよなぁと。
しかし、彼から「ちゃんと死なせてやる」という言葉を聞いて、わたしの中での葬式のイメージが、生者の情念渦巻く淀んだものから、死者の浄化のためのセレモニーというクリアなものに変わりつつあるなと感じました。
医療の発達により、どこまでを人の死として受け入れてよいのか曖昧な時代。生者だけでなく死者もまた、死んでなお、死を受け入れるきっかけが必要なのだと。
儀式はすべて意味をふくんでいて、尊く、そしていとおしいもの。
彼におじいちゃんの守護がありますようにと願うのでした。
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