正直に物を言うのと、何も考えずにすべてを話すのは違うのだなと、やっと今頃思えるようになりました。
本当に今さら、思うことが多い毎日です。

自分の感想を正直に話したり、希望を口にしたりすることは、してはいけないことだと思ってきました。
誰もがそうなのではなくて、私はそんなことをしていい人間じゃない。
同時に、仕事で感じたことはうそ偽り無く、ガンガンいうのが正しいと思っていました。
隠し事とか回りくどいこととか。そういうのは人に対して不誠実だと。

今思うと、とてもいじけていて、面倒くさい人だし。
一方で、人に対して思いやりのカケラもない態度だったのかもしれません。
私は最大限、人に気を使って、誠意を見せてきたつもりだったんですけれどね。
いつもそう。私はね。
これが私のスタンスのすべてでした。

若いうちから任されるものが多くて、評価もされて。誰かに怒られることもなくなりました。
振り返るなら、すべて自分で振り返るしかなかったし、失敗して初めて気付くしか取り返す方法はありませんでした。
先日、卒業生に、いつも自分やなと呆れ返られましたが。自分でやるしかなかったし、自分しかいない世界で生きてきたのです。
その自分の甘さを露呈したくなくて、素直には話さなくなったのかもしれません。


ここまでたどりついて。
この年になって。
だから話せることも増えました。
年を取るのをいやがる女性も多いですが、私はあんまり気にならないようです。
それでも素直さと気ままさの区別がつかず、いまだに悩む日々ではありますが。

「正しさは自分だけのものでしかない。」
そう言った詩人がいました。
世の中のすべてのことの答えは一つだと思ってきた私にはとても衝撃でした。
15年近くたって。 ようやくその言葉の意味に辿り着こうとしています。 一人一人の考え方は違うということ、それぞれが人生で大切だと思うことは違うということ。
それを理解するようになって、自分と違う考えをもつ人にただ苛立つだけだったのが、ほかの考え方や対応をするようなことが増えました。
本当にいまさらですが^^; そうすることが結局、伝えたいことを伝えられるんだと実感して、やっと本当の意味で理解できるようになったというわけです。

それでもなお。
社会で人が繋がっていくためには、社会で人が育っていくためには、絶対の「正しさ」が存在する。
それを伝えるのが教師だと思うのは、傲慢でしょうか。
自由や平等の意味を間違えないように、教えるために先生という仕事が存在すると思うのです。

その教師でさえ。
自由や平等、美しさや正しさを理解しない人が多いのも事実です。
こうやって話す私だってそう。まだまだ見えないことは多いのです。
教師だけでなく、多くの大人がそうなのかもしれません。
しかし、だから語らないというのでは、「先生」と呼ばれる意味がないような気がします。
改装オープンした大丸梅田店、そして新装オープンした伊勢丹を歩きました。
どこもいいものを揃えて、店を構えているのでしょうし、
百貨店側も慎重に選んだラインナップなはずです。
それでも、足を留める人の数が違うのです。
スタンダードなものも、有名店でも、ほとんどの人が通りすぎていく。
立ち留まる理由がないということなのでしょうか。
宣伝。ディスプレイ。声のかけ方。行列。評判。
口コミ。立地。意外性。ポリシー。見た目。立ち居振舞い。
足を留めるにはいろいろなきっかけがあるでしょう。
自信を持って商売をすることも大切でしょうが、足を留めてもらうためには、
いいものを作っているという自己満足だけではなく、
人様に伝えるというのも大事な作業なのでしょう。

私はそういう点でとても独りよがりだったなと思いました。
人様を評価するときはとても厳しいくせに、自分もその土俵に乗っているとは考えず。
それはまるで自分さえよければという姿勢でした。
評価や結果という現実から逃げていると言われて当然。
何様のつもりだったんだろうと今なら思います。

ただ、足を留めてもらったその後に、
もう一度足を運んでもらうための条件は少しちがっていると思います。
足を留めてくれたからその方法が正しいとこだわるのは、
やはり独りよがりだと思います。
どちらも持ち合わせるのがいいのか。
果たしてそれは可能なのか。
それぞれが長所を生かすのか。
それともその場面に応じて誰かが取って代わるのか。

これから社会へ出て行く子供たちがどの役割を果たすのだろう
と思いながら歩いていました。
あまりにボーっとしすぎたのか、
手土産に持っていける商品かどうかを試そうと買いまわりすぎて、
大変なことになってしまいました^^;
あれはまだ私が学生だった時代だったと思います。
世間で、いじめを苦にした自殺が相次いで報道されていました。

当時の文部省が報道機関に声明を発表したのです。
「いじめられる側に理由なんてない。いじめる奴が絶対に悪いんだ。」
そんな内容でした。

その内容がすべて正しいかは別にして。
幼くして命を絶つ選択しか出来なくなっている子供たちやそれをとりまく環境に
強烈なメッセージだなと思ったのを覚えています。


どうしようもなくなっている今。
あかんことはあかん。違うことは違う。
やることはやる。
そう言えばいいのに。間違いのない人が。
と思う私はやはりそんな思考の癖があるんだろうなとは思いますが、
今日、放射能汚染があるんじゃないかと偏見で見られている生徒がいるとニュースを耳にして
とても悲しい気持ちになって、そんな昔のニュースを思い出しました。
いつからか、インタビューでこんな言葉を聴くようになりました。
実は、このせりふが私は好きではありません。
「勇気をもらう」と「勇気付けられる」
この二つの言葉の差は、人とのかかわりのような気がします。

勇気をもらうという言い方は、
勇気付けるものが自分と別にあって、それを自分は遠くで眺めている。
そんな感じがするのです。
勇気付けるもの本体と、その人との距離をとても感じます。

人と直接関わることを避けることが増えた時代を
表しているような気がするのです。
もちろん私の主観と好みの問題です。
何の根拠もありません。

人とのかかわりを避けて、
喜びも悲しみも共有できない。
だから人の痛みも実感できない。
そんな気がして、いやなのです。
多分、私は人の気持ちに同調しすぎなのでしょうが。