最後に☆


あなたが変われば、変われたかもしれない
それが君の最後の言葉だった


伝えたいことはまだあるけど
心がそこにないことをもう隠せないから
だから終わりにしよう

時が戻せるならあの頃へ
何度も想ったけど
2人並んで歩く未来はきっと来ない
初めから知っていたことを
時をかけて、今さら確かめる

零れていく痛みも記憶と抱えていくことだけが
確かに愛してた君への真実だと心に刻む

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2年前、別れた男を書いた詩です。書いたのは、半年くらい前です。
何となく書いたことですが、何度取り返しても、二人で歩く未来はきっと来ないとおもう理由が、今はわかる気がします。
何とかしようとしたんです。お互いに。それでもだめだった。
傷つけあって、ぼろぼろの状態で、終わらせたくないから、ごめんね。って泣いて。
そんな状態だから、次にまた同じように、ぼろぼろになるしかなかった。

楽しくて。感動して。でもそれで次の日人生が変わらないなら一緒だ。
昔、お聞きした言葉です。
まあ、毎日はやってられないかもしれません。ただ楽しいだけの日もいるのかもしれません。
でも、私たちは、変えられなかった。
何とか引き止めて、ほっとして、その思考パターンを変えられなかった。
ただ、楽しい舞台を見て、おいしいものを食べて、おいしい酒を飲んで、笑って、疲れ果てて寝てしまう。
そんなことでしかなかったんでしょうね。
だから終わるしかなかったんだなと、今さら思います。

ほんとは、捕まえて、その男に言いたかったんです。
私はここまでたどり着いたと。伝えてやることが罪滅ぼしのような気がしてました。
でも、決めたんです。
確かに愛してたので。だからこそ、伝えられないことまで含めて、抱えていくことでいいのかなって。
多分、伝えたら、奴もなるほどと思うと思います。もしかしたら、いい友人に戻れるのかもしれません。
それは結局繰り返しになるだけだなと思ったんです。

変わるということも、この10年くらい、私の中の課題です。
ふと、駅で桑田くんのI love youを見て、思い出してしまった話でした。

今年度。久しぶりに絶望感を持たずにスタートしました。状況は結構絶望的なはずなんですけど。
ただ、商売というか、事業というか。それよりも教えるということについて、一つ道が見えたのでそれを実践してみようと思えたことが、引き金でした。今は、それを生徒とがっつり闘ってます。二年後には、彼らを先生にお見せできるかな。

今やってることをお話したいなと思っていますし、それについて先生のご意見をお聞きしたいなと思います。去年ぶち当たった感想文についても、ちゃんとお話してないし。積み残しが私の中にはたくさんあるのです。
本来なら、同業の、同年代の先生方と話すことなのかもしれませんが、いろんなことを考えた時に、先生のお顔が浮かぶんです。
ある人はそれを、先生のことを本当に知らないから、美化しているだけだというように言います。確かに私が拝見しているのは、先生のごく一部でしかないのかもしれません。ですが、私が見た先生もまた先生だと思うのです。それだけを、私に都合のいいところだけを、先生に押しつけているのではありません。

ただ話してみたくなるのですと申し上げるのは、大人には許されないことなのかもしれませんが。この三年。先生にいろんなことがおありだったように。私もいろんなものを見てきました。少しはおもしろい話ができるようになったと思います。

新しいことを始めると、芋づる式にいろんなことが見えてきたり、情報に出会ったり。そんな毎日の私と、生徒たちはよく向き合っていると思います。
ある雑誌に書かれていたラグビーの話です。

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自らが苦しいとき、仲間は必ず駆けつけてくれる。ラグビーというスポーツは、人生そのものだと思う。
先頭を切ってアタックするも、相手の壁に阻まれることは、人生に必ずある。しかしそこでも決して慌てない。自分がつらいときほど、仲間は駆けつけてくれる。困っている仲間を見捨てることなど、ラグビーの教科書には一切記されていない。
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うちの大学は当時、アメフトが強くて、その次がサッカー。ラグビーは地域一の伝統校だったのは遠い昔。グランドもメンバーもままなりませんでした。
この性格を買われて、サッカーのマネージャーとか体育会の幹部とかいくつもお話はいただきましたが、弱小ラグビー部から離れられませんでした。
それはあのバブルの華やかな時期に、あの部で何とかラグビーをやってる彼らを応援してやりたかったんです。
戦術やフォーメーションがあるわけじゃない。グランドに出たら、彼らの本能のまま走り抜ける。巨大な敵に怖いなと思いながら、ぶつかっていく。
アメフトのような頭脳もないし、サッカーのようにファールを誘う賢さもありません。
でも、体ひとつで立ち向かっていく彼らが、一番勇敢で、美しく見えたのです。
まさか、人生のこんなところまで、ラグビーに関わるとは思いもしませんでしたが。アメフトもサッカーもそれなりに見るようになってなお、ラグビーが好きなようです。

私の人への絡み方、仕事の仕方もそんな風です。元からそうだったからなのか、そういう経験があったから、そうなったのか。今となってはわかりませんが。
八年ほど前、うちの卒業生が先生のところで、お手数をおかけした頃の話です。
退学になる友人たちを思って、はじめて自分たちのしたことの大きさに気づいたと申したら、それは本当に気づいたと言えるのだろうか?と先生がおっしゃったそうです。


その問いかけは私にも、衝撃でした。なにかをきっかけにしか、人は気づけないものだと思っていました。悪いことをして、その結果の大きさに初めてまずいと思った。という反省を世の大人は、大抵は受け入れるでしょう。しかし、先生はそうはなさらなかった。
当時身元を引き受けていた私は、本人がそんなにちゃらちゃらしていたはずもないと知っています。もしかしたら、友達をやめさせないでくれなどと、バカげたお願いは口にしたかもしれませんが。
それがゆえ、先生がおっしゃったことの意味を考えるようになりました。


そして、今の私がたどり着いた二つのこと。

一つは思い続けていること。疑問であったり、試行錯誤であったり、希望や夢であったり。その場かぎりではなく、持ち続けていること。
そこに何らかのきっかけがあって、初めて気づくことにはなるのではないでしょうか。
なにかがあって、ただ知るということと、気づくとは違うのだなと、私さえ今さら気づきました。


もう一つ。誰かに諭されたとか、そうでなければならない。ということではなく。まさに自然とそして自分でそう思うようになる。その結果、自然と行動や感覚が変わってくる。そんなことなのかなと思います。


去年、先生がお聞きになった「彼女らは気づくことはできないのか」ということにお答えするなら、やはり私は環境と申し上げるしかありません。才能や能力ではなく。育てることのできるものだと思います。
必ずいざというタイミングがあります。それを見誤らないこと。そのための感覚というのでしょうか。忍耐力というのでしょうか。そんなものが子供を引き受ける大人には必要だと思います。

「愛してる」
その言葉は、自分が愛情を持っているというだけで。
愛情を持っているから、その行動が愛していることになるかというと違うんだなと近ごろ思います。

愛情があって、正しく判断すれば、間違いにはならない。
まして私のためではなく、相手のためにしていること。
まさか、それが相手を愛していることにはならないとは思ってこなかったのです。


例えば。
黙って見守っていてほしいときもあるし、見逃してほしいときもある。
やさしい言葉がほしい時もあるし、黙って聞いてほしい時もある。
自分で立ち直るべきでも、後押ししてほしいこともある。
だから、甘いとわかっていても、待ってみる。

あるいは。
ただ、偉そうに言うのではなく、
相手がわかっていないから教えてやるのでもなく、
その人自身を信じて、その人自身を尊重して。
その上で、おかしいと思うところを敢えて指摘する。

そんなことなのでしょうか。



私が誰かに何かを言うときは、自分のためであることは少ないのですが、
そうは思われないことが多かったです。それは大きな課題でした。
ただ、それにこだわることは、自己弁護のような気がして、避けてきたのです。
そんな私をよく知っている卒業生にでさえ、「あくまでも自分だな。」と言われました。
なぜ私は信頼を得られなかったのか。愛を失うしかなかったのか。
愛情は溢れていたはずでした。
だけど、愛情を持って接していなかったのでしょう。


愛してると思うことと、愛するということ。
もっと早く気が付いていれば。
愛情を持って、尊厳を持って接してあげられたら、
叶えてやれたことも失わずに済んだものもあったのだろうと思います。


愛するということ。
改めて掲げてしまうととても大きな課題です。
でも、関わる人たちに繋がっていくなら、
気付いてみるのも悪くないなと思う日々です。