譜読み…文字通り楽譜を読むことに、つい熱中して時間を費やし、弾く練習が進まないというパターンに陥っています。
シューベルトの即興曲90-3を読んでいますと、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を読んでいるような感覚がして来ました。
『ダロウェイ夫人』と言えば、プルーストの『失われた時を求めて』と並んで、〈意識の流れ〉という手法が用いられている事で有名です。
〈意識の流れ〉は、人物の意識がそのまま文章化されて、現在の話かと思えば過去の話になり、主人公の考えや気持ちが描かれてる中に、流入するようにして、別の人物の意識へと視点が移り変わる。
即興曲90-3は、全体的に終止が弱い印象です。
終止が弱いことで、あちこち転調して変わって行くのに、緩やかに感じられ、「知らない間に別の場所に来ていた」ような感覚を覚えました。
この、区切り・境い目の曖昧さが、『ダロウェイ夫人』に似ているなと。
『ダロウェイ夫人』の中で、意識はずっと漂っており、誰かの話や、状況・景色・音をきっかけに流れを変え、動いている。流れは留まらず、終わることなく。
音楽に当て嵌めて考えると、
メロディー=意識
内声=時空
左手=内面
意識は時空間を漂っている。内声の変化に呼応して意識が動き出す。
左手部分は、意識の根底にある内面なのではないか?と私は考えました。或いは、ビッグ・ベンの鐘(ダロウェイ夫人より)のような役割もある。意識の流れがどれだけ動いても、鐘は、時間は、均等に刻まれる……
意識=動に対して、鐘・時間=静
とするなら、この曲は時計のように、一定のリズムを刻んだ方が効果的な演奏になるかもしれない。
感情的に揺れ動かなくても、十分動かされている。
得意分野の文学から考察してみました。
ウルフとシューベルトは、作品に表れる死生観も何かしら共通してそうな気がします。
また掘り下げて考えて、いつか記事に出来たらと思います。
