自分が5年前に前の会社を辞めた時に陥ったのと

同じような状況が書かれている記事があったので

メモしておきます。

 

確かに会社辞めると、意外と「お金」よりも

「居場所」がなくなるのが辛かったかな。

もちろんお金も不安だけど。

 

後は、それまで蓄積してきた鎧を取り去るのは

死にたくなるほどきつかった。

 

【定年後の歩き方】「孤独な元会社員の生活を一転させた同級生の電話」リタイアしてわかったお金より大切なこと~その1~ (msn.com)

 

リンク先がなくなるかもしれないので、内容を貼っておきますが、

問題などありましたらご連絡お願いします。

 

2024年3月13日、厚生労働省年金局は『老後の生活設計と年金に関する世論調査』を発表した。これは18〜70歳を対象にした大規模調査だ。

 

「何歳まで仕事をしたいか、またはしたか」という問いがあり、それに対して、約4割が66歳以上と回答している。

 

その背景には老後資金の不安もあるだろう。公的年金以外の資産をどう準備したいかという質問には、「預貯金」という回答が67.6%と最も多かった。「退職金や企業年金」が32.9%、「NISAと呼ばれる少額投資非課税制度」が20.9%と続いた。

 

2025年は5年に1度の公的年金の制度改正の年だ。24年は改正議論のための財政検証が予定されている。この調査結果がどのように反映されるのだろうか。

 

東京都心に住む由紀夫さん(67歳)も、「仕事を辞めたあと、1年くらいおかしくなった。お節介な同級生がいなかったら生きていなかったかもしれない」と語る。

1分でも勉強させたいと母は鉛筆を削った

北関東地方で生まれ育った由紀夫さんの人生は、55歳まで基本的に順風満帆だった。

「幼い頃から勉強もスポーツもできました。できたというより、努力が苦にならなかったんです。小学生の頃は野球、中学校と高校の6年間はサッカーに夢中になり、県大会で優勝しました」

 

当時の体育会系は鉄拳指導と苦しい練習がつきものだ。それに対しても「勝つためになんでもすべきだ」と思っていたという。

 

「話題のドラマ『不適切にもほどがある!』を見て、僕たちが青春時代を過ごした1970年代は、あの舞台となった1986年よりも、もっと不適切な常識がまかり通っていたと思います。結果が全てであり、強い人は何をしても文句は言われなかったですから」

 

だからこそ、由紀夫さんは勉強も頑張った。どんなにサッカーの練習が辛くても、授業中は一切の居眠りをせず、夜中まで勉強しても、学校に遅刻はしなかった。

 

「もし、そこで怠けたことで、成績が下がったり、順位が落ちるのが嫌だったんです。“勝ちたい”この一心だけで過ごしてきました」

 

大学も第一希望だった東京の国立大学に現役で合格。生まれ育った町からその大学に合格した者はおらず、祖父からは「一族の誉」と30万円の祝金をもらったという。

 

「今思えば、僕があそこまで結果を出せたのは、家族のサポートがあってこそ。母は僕の勉強時間を1分でも多く捻出したいと、あらゆる生活の世話をしてくれました。鉛筆まで削ってくれていたんです。父は地方銀行に勤務していたのですが、タバコも酒もやめて、僕の学費のために貯金をしてくれました」

 

由紀夫さんが東京の大学に進学したことで、2歳年下の妹は地元の短大にしか進学させてもらえなかった。

 

「妹も成績がよく、それなりに有名な東京の私立大学に進学したいという希望がありました。でも、僕の下宿代、学費にお金がかかったことで、それが叶わなかった。そのことは今も言われます」

 

大学に進学し、東京との差異に驚いたという。

 

「大学には、生まれも育ちも東京という、僕よりも何倍も努力しており頭がいい人がたくさんいました。有名人が家に遊びにきていたり、父親が大会社の役員だったり、母親が文化人だったり。入学式のときに、父は背広を母は着物を着ていたのですが、明らかに見劣りしていて恥ずかしく、二人を遠ざけてしまった。今思えば、僕を大切に思ってくれた両親にそんな態度をとってはいけなかった。今もふと思い出しては恥ずかしくなります」

「真面目だよね」は褒めているのではなく、呆れられている

由紀夫さんは大学に入学してから、努力でどうにもならない世界があることを知る。それは元々の頭の良さと、それまでに積み上げてきた経験の深さだという。

 

「地方出身者と東京の人は、経験の層が違うと思いました。手を伸ばせば最新の文化があり、アートも音楽も幼い頃から本物に触れている。加えて、多種多様な人生を知っているので、さまざまなことが瞬時に理解できるんです」

 

例えば職業だ。由紀夫さんの地元では、農家、農業関連機関の職員、学校の先生、役場の職員、工場に勤務する人、個人事業主、医師も含めた医療関係程度しか職業のバリエーションはない。

 

「東京は幅広く、職業選択が自由であり、それぞれが相互に関連しあって、巨大なマーケットを動かしている。それが僕には感覚的にはわからなかったんです。東京生まれの同級生から、よく“真面目だよね”と言われていました。僕の地元では“真面目”は褒め言葉で、最初は嬉しかったのですが、付き合ううちに意味の違いがわかってきたんです」

融通がきかない人や、思考がステレオタイプな人を「真面目な人だ」と表現することはよくある。

 

「内心、呆れていたんでしょうね。それに対してどうにもならないから、とにかく勉強を頑張って、第一希望の大手商社に就職しました。ここでは、あらゆる仕事をさせてもらい、まさに僕の青春だったと思います」

 

東南アジアの鉄道路線の開発など、国家規模の事業に携わったこともあったという。

 

「あの時代は、とにかく日本は強かった。1ドル100円を切ったこともありましたから。団塊の世代の先輩たちが、戦後の日本経済を牽引し、僕たちがそれを受け継いで頑張ったからこそ、今の若い人が、当座の食べ物や着るものには困らないという状況があると思うんです」

 

由紀夫さんは、1週間会社に泊まり込みしたり、徹夜で仕事をするなどザラだった。

「人が多かったから、“ここで頑張らなくては、誰かにこの仕事を奪われてしまう”という思いも常にありました」

 

上司や顧客に叱責されて、全人格を否定されても「ありがとうございます」と言っていた。そしてそのストレスは、家族に向かった。

 

「上司が紹介してくれた人と35歳で結婚し、40代で生まれた息子2人の学費や住宅ローンのために、65歳まで働きました。55歳の役職定年からは、お金のために働いていたようなものですよ。僕は覚えていなかったのですが、妻に対して暴言を言ったり、息子に対して暴力を振るっていたみたいです」

 

65歳の定年の日、自宅に帰ったら妻は家を出て行くと言った。理由は「あなたがいるだけで体調が悪くなるから」だという。

 

「僕が“何時に帰ってくるんだ?”とか“飯はどうする?”と聞くことが、妻に責任と義務感を与えていたようで、精神的に苦痛だと言われました。僕がその質問をしたのは、別に食事の用意をして欲しいわけではなく、遅いならどこかに飲みに行こうかと思っただけ。そういう一つ一つの言葉の意味が、逆の意味に捉えられていたのだと思い、失望したんです。息子たちも交えて話をしたのですが、私への非難の言葉しか得られなかった」

 

妻も息子2人も自宅に住んでいる。それなら自分が出て行こうと、不動産投資向けに買った都心のマンションで暮らすことにしたという。

 

「6畳のワンルームで、買ったものの誰も入らない物件でした。それなら自分で住もうと、引っ越したんです。僕は都心の生活に憧れもあり、楽しむつもりもありました」

 

取材・文/沢木文

 

定年後の歩き方】「孤独な元会社員の生活を一転させた同級生の電話」リタイアしてわかったお金より大切なこと~その2~

【定年後の歩き方】「孤独な元会社員の生活を一転させた同級生の電話」リタイアしてわかったお金より大切なこと~その2~ | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 (serai.jp)

65歳からワンルームマンションで一人暮らし

大手商社に65歳まで勤務した由紀夫さんは、定年を迎えた後に妻と息子2人と住んでいた東京郊外の一戸建てから都心のワンルームマンションに引っ越し、別居する。引越し先のマンションは10年前の不動産投資ブームのときに購入していた。6畳のワンルームなので、住み心地がいいとはいえず、短期の入居者が入ってはすぐに出て行っていたという。

 

「僕が不動産投資に失敗した物件ですよ。素人が手を出してはいけない世界だと思いました。最初は快適だったんです。雑音がなく何時間も寝ていられるし、お金にも困っていないので、自由を楽しんでいました」

 

しかし、幸福は2日しか続かなかった。どこにも所属していないという不安感。65歳の男性がたった一人で暮らしていることの孤独が身に染みるようになった。

 

「一人でいると、ろくなことを考えない。仕事をしていたときの僕の時間は、未来へと流れていました。仕事は未来に向けて頭と手を動かす作業です。でも仕事から離れ1人になると、時間は“今この現在と過去”しかなくなる。あの感覚は経験した人じゃないとわからないと思いますよ。未来に引っ張ってくれる力が、外にも自分の中にも全くなくなる絶望。これは僕のような仕事人間は知っておいたほうがいいと思います」

 

由紀夫さんは「今」何もしないのが怖かったという。だから、ギターを買い練習を始めた。

 

「夢だったギターをやってみようと、動画を見ながら練習しました。1日4時間を練習時間にし、30分休憩を挟んで、2時間はドイツ語の勉強、3時間は中国語の勉強と、家にこもって自らにノルマを課し、練習をしたのです」

 

当時のスケジュールは、朝6時に起床、6時半からラジオ体操と朝食。7時から11時までギター、13時まで2時間の散歩。18時まで語学の習得だったという。

 

「ギターが弾けるようになったら、発表会をするとか友達とバンドを組むとか、そういう未来を考えなかった。目の前の時間を空虚なものにしないために、あえて難しいことに取り組む。外国語も現役時代なら“仕事に使う”という未来がありましたが、このときは時間を埋めるために頑張っていたのです」

 

集中するあまり、食事や入浴も忘れることがあったという。

 

「栄養が取れればいいと、3日間納豆のみだったこともあります。そんなあるとき、地元の同級生から連絡がありました。僕の両親はすでに亡くなっており、実家は妹一家が住んでいます。地元に縁はないので、最初は無視していたんですが、あまりにもしつこい。電話をとると、“母校の100周年を記念して同窓会をする。お前は同級生の星なんだから来い”という連絡でした」

 

女性も含めた4人で打ち合わせの後、自宅へ


地元には何の未練も思いもない由紀夫さんは誘いを断る。しかし相手は食い下がった。そして「週末に上京組の幹事と会うから、お前も来い」と言われる。指定された店は、由紀夫さんのマンションから徒歩圏内だったので参加した。

「僕に電話をかけてきた男と、女子2人の会でした。みんな老けていたけれど、面影はある。このとき久しぶりに“同窓会を成功させる”という“未来思考”に触れて、気が緩んだんでしょうね。僕が一人暮らしをしているというと、皆が来たいと言うので、“いいよ”と答えてしまったんです」

 

由紀夫さんは18歳まで身の回りの世話を母親がしていた。独身時代は社員寮に住んでいたので、寮母さんや後輩が世話を焼き、結婚してから妻がそれを担当した。65歳で初めて一人暮らしをしたのだから、家事のスキルはない。

「家が散らかっていることを伝えたんですが、3人は引き下がらない。ドアを開けると3人は絶句していました。女子1人は“息子の部屋よりひどい”と言い、片付けが始まったんです。僕は部屋が汚いことに慣れてしまっていたのですが、これは“汚部屋”だそうでした」

1年間、掃除もろくにせず、ギターと語学の練習ばかりしていたのだから、その惨状は想像がつく。掃除は4人がかりで1時間かかったという。

「僕が別居していること、布団を買うのがめんどくさくて、寝袋で寝ていることや、カーテンをつけていないことなどを言うと、もう1人の女子は“セルフネグレクト(自己放任)”だと言いました。それは僕が高校時代からあった性格のようで、同級生の男は“お前は全然変わらない。“勉強ばかだ”と笑い飛ばしてくれたんです」

掃除が終わって、酒を飲むうちに「よし、これから奥さんに謝りに行こう」ということになったが、それはやめてもらったという。

 

「居場所がないことを再確認するのはつらい。終わったものは終わってしまったんですよ。でも、この日をきっかけに、僕自身も人生を考え直しました。学歴や勤務先などの鎧が取れたら、ただの人になることを受け入れられるようになったんです」

同窓会に行くと、皆がリタイアして、同じ立場に戻っていた。そのときに、地元で介護関連の会社を経営している同級生から、組織マネジメントの質問をされた。

「大手はどうしているかを知りたいというので、20年前と今の違いについて説明しました。昭和時代はエースが組織を牽引していましたが、今はチーム単位で相互成長を促す仕組みを作っていることなどを解説したんです」

そして、1on1(上司と1対1のミーティング)の最適な時間と頻度について、有給休暇の考え方、業務効率化の要点などを話すと、「管理職向けのマネジメント講座の講師になってくれ」と言われたという。

「謝礼は5万円と往復の交通費だという。マンションに戻って、説明用のスライドを作っているうちに、僕が積み上げてきたものは意味があったと。同級生とつながらなければ、そう感じることはできなかった」

それから半年、今の生活は楽しいという。

「同級生の会社のコンサルタントのようなことをして、毎月地元に帰っています。僕のアドバイスを実行したら、離職率が減ったと感謝されています。この“感謝される”ということが、定年後の人生の心に沁みるんです。会社員時代は何もかも“やって当たり前”でしたから、感謝の心を忘れてしまっていたんでしょうね」

それ以来、由紀夫さんも人に感謝の言葉を伝えるようにした。妻にも電話し「これまでありがとう」と伝えたところ、驚かれたという。おそらく、由紀夫さんの夫婦関係は時間をかけて元に戻っていくのだろう。そのきっかけは、同級生の電話に出たことだった。人生、何があるかわからず、どれだけ年齢を重ねても、人生が変わる瞬間は多々ある。定年後はお金も大切だが、変化の機を捉え、動く体力と気力を維持することも大切なのかもしれない。

取材・文/沢木文