地球ひろしさんからお話をいただいて、最初は躊躇したものの

earth-TVで「ノンデュアリティ」と「現実創造」(引き寄せ)の出会い」

というテーマでお話しさせていただきました。

 

自分語りが長すぎた!笑

 

(これはねー、私普段ほとんど過去のことを思い出すことがなくて

いつ何が起きたのかほとんど忘れちゃって来てたので、

インタビューされた時に慌てないようにと思って…年表を作っておいたんですよ。

なので、ついそれを見てしゃべってしまい、それ以外のことを話す時には

かえって頭が真っ白になってしまいました。)

 

 

あとで、大切なところをきちんとお話ししてなかった…と思うところがあって、

もう一度取り直したいくらいなんだけど、取りあえず忘れないうちに

自分のブログには書いておきます。

(細かい解説で、人によってはわかりにくいかもと思える
うんちく部分をいつものように色文字にしておきます。

そして、あくまでも今現在の私の世界観のシェアであり、

「これこそが真実!」みたいなスタンスで言うつもりではないです。(;´・ω・))
 

 

「ノンデュアリティ」と「現実創造」(引き寄せ)の接点について

 

どちらも(これまで自分だと思っていた)「幻想(個)のわたし」が落ちて、

「本当(全体)のわたし」が目を覚まします。

 

「これまで自分だと思っていた幻想のわたし」とは、ざっくり言うと

思考・感情・(もっと潜在的な)観念、を取り扱うマインドの活動のことです。

 

(もっと広い意味で言うと、個人の私だと認識している範囲すべて、
肉体機能の「自分の身体という感覚」等も含まれるかもしれませんが、
取りあえず生きるのに必要不可欠な部分は表現としては置いておいて)

 

この世界の根本的な「実在」を見ていくと、
一つのいのちの根源のエネルギー(ソースエネルギー)だけの

目に見えない波動の世界に行きつくんだけど
物理次元で生きる私達は、五感(視・聴・嗅・味・触)によって
目に見えない波動の世界を「翻訳」し、時空間という枠の中で認識しています。

(詳しくは「現実創造の5ステップ(4)」の記事で書いています)

 

この感覚器官がなければ私たちは世界を認識できません。

 

なので素晴らしい翻訳機能なんですが、

私達には人間特有の「知・情・意」という働き(私はこれを「マインドの働き」って呼びます)

もあって、これが機能すると、受け取った情報を脳で一次的に翻訳するだけで終わらず、

内面世界でさまざまな解釈を加え、自分独自のストーリーを創り出すんです。

 

その「ストーリー」が、本当は意味のないニュートラルな世界に

自分独自の解釈を与え、その人独自の世界観を作ります。

 

前の記事で紹介した「感情スケール」下位の、自己否定や無価値観などに基づく

ネガティブな解釈は苦しみや生きにくさを生み、

上位の愛・感謝・情熱などに基づくポジティブな解釈は
喜びや歓喜を生みます。

 

 

ところが、これらはすべてマインドの活動なので、ありのままの世界そのものではなく

あくまでも「世界をどう認識しているか」という私たちの内面世界の活動なんですね。

 

それを、すべては「幻想」であると見抜くのが、「悟り」であり、

今日本で広がっているノンデュアリティ」の概念だと言えます。

 

 

「認識」は残りますが、それはわたしという個人的が行っているのではなく、

「全体からのおこり」だと認識します。

 

個人的な解釈・ストーリーが落ちているので、そこから生じる苦しみが付いてきません。

 

 

(そのかわり「喜び」の側も落ちて虚無的になることもあります。

 

生物としての「快(心地よさ)・不快(痛み)」が無くなるわけではないけど、
そこに個人的な「苦しみ・喜び」という解釈(=幻想・ストーリー)がくっついて来なくなり、

物事があるがままに起こるのを受け入れる

(or なにも掴まないで流れるに任せる)ようになるのですが、

「空(何も無い)」にフォーカスが置かれることが空虚感に繋がるんじゃないかな?


一方、「愛が残る」という表現をすることもあります。
 

これ、「誰もいない」「なにもおきてない」「解釈が無い」世界なのに、
じゃあただの「無」「からっぽ」のはずなのに、そこに残るのを「愛」だと認識するのは
誰(なに)なんだろう?という疑問も出て来るんじゃないかな~と思ったことがあります。

それについて、私の感覚でとらえた理解をことばに表現すると
こういうことなんじゃないか(↓)と思います。


「ニュートラルな世界」は根源のいのち(ソースエネルギー)の現れであり

ソースは無限の可能性の源として、

どんな現れも許容する「背景」ともいえる静寂(=空)なので

その、「なにが立ち現れることも可能な(=どんな解釈も許す)無条件の許容度」を

「無条件の愛」と呼ぶこともできるし、
苦しみや制限からの「解放」という形で静寂に出会うと、そのなにも無さを

(苦しみの対極の)「至福」と感じるかもしれず、
その辺から「なにもない」のに「愛の中にある」という表現が出てくるのだと思います。)



しかも、話の質としては別なんですが、このへんを
バシャールが「世界はポジティブに傾いている」と表現しているのと

照らし合わせると(私的には)興味深いです。

ポジティブとネガティブの他にニュートラル(中立)のポイントがある、と。
ちょうど線分の「0」、ゼロポイントのようなイメージですね。

そこではポジティブもネガティブもどちらでも選択することができる自由があるから
その分だけポジティブに傾いている、というわけです。

全てを創造する源泉のゼロポイントの無限の可能性ゆえに

この世界がポジティブに傾いている、ってのは
すべてを許容する無条件の愛の中にある、っていう表現とどこか通じてる気がします。

 

 

さて、この「これまで自分だと思っていた幻想のわたし」が落ちるという部分を

「ノンデュアリティ」のメッセージが表現しているとしたら、

「現実創造」(引き寄せ)のメッセージは、このプロセスがうまく行く道を辿ると

「本当のわたし」が目を覚ますという部分に焦点をあてているように思えます。

 

つまり、「幻想のわたし」、思考・感情・観念に振り回されるマインドの私には

「引き寄せ」(=意図的な現実創造)はうまく行かないんです。

 

マインドのやっていることはほとんどが「抵抗」を生み出すので。


 

エイブラハムは、

今でも私たちは見えない世界(=ソースエネルギー)と繋がっている、といいます。
 

ソースエネルギーは私達の身体を「生命力」として流れていて、意識していなくても

心臓を動かし、代謝をおこなって酸素やエネルギーを細胞に取り込み

いのちを支えています。

 

その同じエネルギーは、私たちの肉体活動だけではなく精神活動にも働いていて、

それをエイブラハムはinner being(=「内なる存在」)と呼んでいます。

 

それが「ほんとうの自分」であり、すべてのインスピレーションの源でもあります。

 

私達は、マインドの働きが自分だと思い込み、

その(思考・感情・観念の)せわしない活動のおかげで

ほんとうの自分である「内なる存在」との繋がりが隠れてしまっているのですが、

エイブラハムは、「感情」というナビゲーションシステムを頼りに、

マインドを意図的に働かせて(思考・感情・観念を自分で選択することにより)

「内なる存在」の声に耳を傾け、ソースエネルギーの波動と同調しなさい、

と呼び掛けているんです。

マインドの大きくてしつこい声が止むと、「内なる存在」の声が聞こえてきます。

(乱れたエネルギーの波動が落ち着いて静かになると微細な波動が現れて来る)

また別のアプローチとして、

マインドが愛や感謝などポジティブな方向に向かうと
「内なる存在」の波動との共振共鳴が起こって、同調した結果、その声が聞こえてきます。

感情をナビとして使って高い波動にあげていく。

あるいは「内なる存在」を「本当のわたし」と感知し、マインドの嘘や虚偽を捨て、

より「本来の自分」であることにより、「純度を上げる」と表現する人もいる)
 

その時に初めて、世界と「わたし」が本来の調和を取り戻します。

 

 

「内なる存在」(=本当のわたし)のナビゲーションにより

自分(=世界を観測する側)の波動と

ソースエネルギー(=世界を創造する側)の波動が同調することで

「わたしの内面世界」(望む世界)が、ソースエネルギーの創造の働きにより

「わたしの(外側の)世界」に現れるんです。
 

ちょうど「5ステップ」(3)の記事で書いた、

見たい番組を放映しているTV局の周波数にチャンネルが合うように。



それまででもマインドを通した「望まない世界」が現れていて観測をしているという意味で
私達はいつでも自分の体験する世界を創っているといえるんですが、
波動の調整の仕方(=チャンネルの合わせ方)を知らずに
望まない番組を見ていたのが
「内なる存在」と調和する(=チャンネルが合う)ことで

望む世界を観測するようになるわけです。

 

だから、望む現実の意図的な創造プロセスは、

マインドの「幻想のわたし」から、内なる存在の「本当のわたし」への目覚め、

とも言えるんですね。

 

 

なので私の理解では、ノンデュアリティのメッセージで虚無的になっている場合は

マインドが落ちた、個人の自分という感覚が落ちた、という状態にはなっているけど

自分本来のいのちの輝き、内なる衝動に出会う、という意味で

生命力・創造の源でもある力強いソースエネルギーが流れ込んで来るのを

許していないか感じないようにしているだけなんじゃないかな~?と思います。

 

なぜなら「内なる存在」は、

物理的な肉体にとっては内側の感覚として「ある」という(存在の)感じがするので

「わたしはいない」という言葉に引っ張られ過ぎると、

自分が感じる衝動さえ「ただ起こっている」と、ひとごとのようにとらえ、

行動しない傍観者のようになってしまうかもしれないから。

 

もしそうなら、それまで「わたし」だと感じていた感覚が変わるだけなんだ、

って、「感覚のシフト」って思ったらいいんじゃないかなと思います。

(例えばマインドからハートに、とか。「個から全体に」はわかりにくいけど

こっちはピンとくる、ってこともあるんじゃないかな?その辺は個人の感覚で)

 

 

まだ創造のプロセスのステップ3までしか記事にしてないけど、

ステップ3でマインドの抵抗をなくすことにより「受け取る」技術を磨いて、

ステップ4でその生き方の達人になり(=「悟り」が定着するプロセスと同じ)

ステップ5でそれまでと全く違う見方で世界を見るようになるんですが、

それは「ノンデュアリティ」に触れて「幻想のわたし」が落ちた状態ととても良く似ています。

 

違うのは、「ノンデュアリティ」のアプローチを通して達するのはいわば

なんの解釈もない無色透明の場所で、「自分が世界に溶けてなくなる」感覚なんですが、

 

「意図的な現実創造」(引き寄せ)のアプローチを通して達するのは

ソースエネルギーの波動と同調することにより「自分と世界がひとつになる」感覚です。

 

どちらも「ソースエネルギーそのものになってる」と表現したら同じことになります。


もう少し詳しく書きたいんだけど、十分長くなっちゃったと思うので、
もし機会があったら、このへんのこともお話ししてみたいです。

では、まだ今日の記事に書いたような表現にまで至ってない喋りだけど、

よかったらYou Tubeご覧ください。