精神的解脱の為に様々な努力をし、様々な手段と心理学的概念を駆使した上で、しかし、ある程度の努力の限界に直面した場合、最後の手段は、いっさいの付帯事項や条件、あるいは前段階的手段、補助的手段をいっさい使わず、それらは完全100%ゼロにして、ただ、最も原初的な「こうありたいー」という願いだけで、直接、無条件の自然の自分の心身の総力の後天的進化力にまかせることだと思います。


 つまり、それまで培ったすぺての手段や概念は、それを覚える記憶するという形で、自分の潜在意識に完全に移譲し、その上で、顕在意識では、もはやいっさいの付帯条件や、補助的条件をつけずに、ただ、自然に願うこと、直、自然の自分の後天的進化力に任せることを、繰り返し繰り返し試技し続けることです。


 つまり、補助的手段を設けると、その補助的手段の達成度や、あるいは、実存的な潜在的能力が、そのまま後天的進化力の無限の可能性に制約を与えてしまうことになります。そうではなく、いっさいの補助的手段を放棄し、ただ、「こうありたい!」と願い続けることで、自然の後天的進化力によって、ある時期、奇跡的にその能力が備わる可能性があります。


 おそらく、人類の文字文明において、この「後天的進化」という言葉あるいは概念ほど光り輝く言葉を、少なくも私は知りません。

たとえば、農業において、ある種の害虫に対して、それを駆除する農薬を開発しても、数年でそれに耐性をもった害虫が出てくるといいます。人間の人生は、数年なんてものではありません。数十年であり、場合によっては百年です。たとえば、四十歳からでも平均寿命までは、約40年もあります。その間に、ただひたすら願い続け、努力し続けるならば、人間はその心も体も自然に無条件に自然の順応力で進化するのではないだろうか? 少なくも、そのような考え方あるいは仮定には、理論的に否定出来ない正当性と可能性があるーということが重要です。


 ある程度、これは何も精神的な解脱に限らず、自分が「こうありたいー」と願って、様々な努力をしてもどうしても達成されないある限界、それは、時間的限界であるかもしれませんし、経済的限界であるかもしれませんし、能力的限界であるかもしれませんが、その時は、もういっさいの付帯条件を放棄し、ただ、願い一つで試技し続けることで、自然の後天的進化力にまかせてみてはどうでしょうか? 勿論それは、1回や2回の試技ではなく、場合によっては数万回の試技かもしれませんがー 諦めずに! ひらめき電球ベル