日々の暮らしの中で、
成長してくる過程の中で、
頑張って生きるのが、当たり前だと思っていた。
学校に行っている時代は、
本当に頑張って生きていた。
わたしは、頑張ることこそが美徳と
思っている母に育てられたので、
いっつも頑張って勉強すること、
良い子でいること、社会に適応すること、
それが当たり前の価値観として、大人になった。
けれど、どんなに頑張っても、
どんなに適応したとしても、そんな自分が
幸せだったかと振り返ったら、うなずくことができない。
何のために頑張っていたのか?
何かに、誰かに認められるために頑張っていたのか。
何故、誰かもわからないものに認められる必要が
あったのか~? 何に認められたいのか?
息子を育てる中で、
わたしは何度もそういった漠然とした
違和感と向き合っていった。
彼を育てる中で、何度も何度も出てきた
「社会適応できるかできないか~」
社会適応の基準がどこにあるのか、
平均的な発達像がどこにあるのか、
個性の範囲内とか、
発達障害の枠とか、
だれが決めて、その中にはまるはまらないが
価値基準になったりする、わかりにく~い部分。
結局、
自分がどこにフォーカス 意識するかで、
価値観って大きく変わるんだ~って知った時、
わたしが当たり前だって思ってきた価値観は、
大きな音を立てて崩れていった。
自分が長い時間かけて創り上げてきた
価値観が崩れ去った時、一気に虚無感が
襲って来たのを覚えている。
わたしが、それが正しい、こうあるのがいい。
こうしたい、こうしていく、などと思うそんな全てが
実は、どうでもいいことだったのかもしれない。
じゃあ、わたしが握りしめていたものたちは
何だったのだろうか~
そう思うと、虚しくて虚しくて仕方なかった。
でも、一旦崩れ去ってみると、
どれだけ自分が楽で自由なのかを知った。
どんな形もOK。
自分のことも、ひとのことも認めて
受けとめる幅が大きくなっていった。
そして、頑張るのではなく楽しんでやっていると
幸せなんだということに気づいていった。
今でも、時々とってもしんどくなる時がある。
好きなことしていても、なんか楽しめない時がある。
そんな時ってね、
頑張る自分を握りしめていることに気づく。
もちろん、頑張らないとできないこともある。
でも、頑張りながら楽しい時は、
自分のためにやっている時。
頑張ってすごくしんどい時は、
誰かに何かに認められたくてやっている時。
しないといけないと、自分で決めてやっている時。
そんな時って、なかなかうまくいかなかったりする。
自分で自分を追い込んでしまい、
自分でも気付かないうちに、
頑張るべき自分のサイクルにはまっていく。
長い間、わたしの中にあった思考の癖は
完璧になくなってはくれないけど、
もう、頑張る人生はやめる。
楽に幸せな人生を選んで生きていきたい。
握りしめてきた価値観を、これからも
この手から手放して生きていこう。