…自宅の駐車場から車を取り出し、夜間保育園へと向かう。消灯で薄暗くなった教室には子供達が並んで眠っている。新幹線やキティーちゃんなど、色とりどりの模様の毛布がかわいい。

 

「三七度五分ちょうどで、セーレーは平熱が高い方なんで大丈夫だと思いますけど、一応規則なのですみません」

 今日の夜勤の担当は、うちの息子が一番好きだという美奈子先生だった。

 

「いえいえ、大丈夫です。いつもありがとうございます」

「アキさんはすぐ来てくれて助かります。呼んでも来ない親の方が多いですからねー」

 

 ここに通う児童のお母さん方とはもちろん顔見知りだけど、わたしを含めて全員、遅くまで飲食店で働いている。だからまあ、すぐに来るのは難しいだろうなー。

 

 もう一度、子供たちの寝顔を見る。クリスは白人系のハーフ、お母さんの宮城さんは小料理屋のママ。愛ちゃん、麗ちゃん姉妹はアフリカ系のハーフで、お母さんの京子さんはリサちゃんと同じ店で働いている。京子さんはもともとは横須賀の人なんだけど、いじめを気にして沖縄に来たんだそうだ。

 

 でも、聞いた話では沖縄のいじめもひどいらしいけど。そしてセーレー。セーレーの父親もアフリカ系だと聞いている。もちろんここにはハーフじゃない子供たちのもいるんだけど、不思議とわたしと仲のいいお母さんの子供はハーフだったりする。(「沖縄サンバカーニバル2004」第7話より)

 

 

中の町社交街

 

 わたち夫婦が沖縄市の中央パークアベニューで経営していたサンバ居酒屋オ・ペイシは、夕方5時から夜11時まで。ただし、そうはいっても沖縄の夜は島特有の長さがあって、11時以降もお客さんに合わせて店を開けていました。だから、閉店時間などあってないもので、週末は普通に深夜2時、3時まで。

 

 そういうわけで、店をオープンさせた2000年時点で3歳だった息子は、夜間保育園で面倒を見てもらっていました。

 

 小説では安慶田夜間保育園という架空の設定にしていますが、実際は室川夜間保育園と言って、繁華街のある胡屋地区から北へ坂を下りていったところにありました。認可保育園です。

 

 その夜間保育園には、当時、うちの息子を含め10数人の児童がいて、毎日深夜2時までお世話になっていました。今思えば深夜2時までというのはかなり遅いと思うのですが(現在は深夜0時までだそうです)、児童の母親全員が水商売をしていて、ほとんどシングルマザーの方ばかりだったので、みんな助かっていたと思います。

 

 店が引けてお迎えに行くときなどは、もちろん子供たちは熟睡してるのですが、みんなそれぞれカラフルなキャラクター柄の布団で寝ているので、教室をぐるりと見渡すと、なんともかわいいことと言ったら。

 

  ただし、子供の体温が37度5分以上になると、引き取らなくてはいけない規則になっていて、お店が忙しいときに保育園の先生から電話がかかってくると、ほとんどパニックになったものです。

 

 また、これも小説の中でも書いていますが、運動会や学芸会の時など、保護者の男手が必要な時には、わたしが重宝されました。おわかりでしょうが、男親がいる家庭が、うちしかなかったから。

 

 記憶をたどると、その当時、胡屋十字路の、現在はミュージックタウンという建物がある場所にも、夜間に対応していた託児所がありました。ここにはだいたい3、40人の児童が預けられていたのですが、かなり狭いスペースに子供たちがぎゅうぎゅうに押し込められていた印象がありました。

 

 ただ、その託児所のすぐ裏がもう中の町社交街だったので、ホステスのお母さん方には重宝されていたようです。

 

 月曜日から土曜日まで、毎日、子供を託児所に連れていき、社交街で働き、店が引ければ子供を迎えに行き、連れて帰る。

 

 こんな風にコザの町は、母親と子供たちがあわただしくも力強く生きているのですが、それゆえかどうか、息子が通っていた沖縄市立諸見小学校(胡屋十字路のすぐ東にある)は、当時、学力テストでほぼ県内最下位という不名誉を。沖縄県で最下位ということは全国で最下位ということでもありますしね。

 

 ちなみに諸見小の卒業生には、少々世間を騒がせた、タレントの羽賀研二さんがいます。

 

 

 

諸見小学校