私は中学生の頃から一貫して渡辺美里が好きだ。ショパンと同じくらいに。はじめて美里のライブに行ったのは、高校2年の時。「SUPER Flower bed BALL '89」の大阪球場。早朝、6時前くらいだっただろうか、当時住んでいた堺市の新金岡にあったチケット屋さんに並んで、ドキドキしながら開店をひたすらに待った。ビギナーズラックとはよくいったもので、アリーナの1列目をゲットしたのであった。昔は、並べばよい席を取ることが出来たのだった。

大学生になってからは西武球場ライブにも毎年行っていた。私にとって、西武球場(後にドーム)ライブは、毎年の決意の場であった。いろんなことが上手くいっても行かなくても、また一年頑張るぞ、と自分に気合を入れる、そういう時間なのだった。そんな恒例のライブも、2005年に行われた「MISATO V20 スタジアム伝説〜最終章〜 NO SIDE」で最後となった。歳をとるにつれ、座席の場所にこだわらなくなっていったのだが、「来年で終わりか・・・」と思った19回目で、運よくアリーナの2列目が回ってきた。これは偶然にも友人が2列目をゲットし、一緒に行く相手が急遽行けなくなったから、ということで回ってきたのであった。

そして最後の20回目。私はあらゆるコネというコネを使ってアリーナ前寄りの座席を手に入れようと春から画策していたのだが、「D通」という最後の手段を使っても「良席は約束できません」という答えだった。

そんな時、ファンサイトで「どなたか一緒に」という掲示板を見つけ、「ビビッ」ときた私は必至の思いをその方宛てにメッセージで送った。そういったメッセージを何人かの方が送られたようなのだが、その方は文章で私を選んでくださった。そして、行ってみるとなんとアリーナの1列目、しかも中央寄りの素晴らしい席なのだった。そう、私はオーディションに合格してアリーナの1列目を手に入れたのだ。あの時、私にチケットを譲ってくださった方はどうしていらっしゃるのだろうか。今でもたまに思い出す。しかし、その年のミラクルはそれでは終わらなかった。私はその勢いに乗って、あこがれのショパン・コンクールに行くことを決意したのだ。やはり、今年こそは行かなければならない。次は5年後なのだから。美里の最後の西武ライブをアリーナの1列目で見たのだから。

そして、コンクールが行われる1ヶ月前、お金とも相談して、ようやく決心して、とある方にショパン・コンクールのチケットが取れるかどうかを聞いてみた。返事は「ある訳ないと思うけど、とりあえず聞いてみる」とのこと。そして、現地の○○さんを訪ねなさい、という返事をもらったのだった。ホールの中の○○番の番号が書いてある事務所のエライ人のところへ、ろくに英語も話せないのに行くのである。しかも急なコネチケットである。失礼があってはならない。それまで海外旅行と言えばバリやグァムといったアジアのリゾートにしか言ったことがない私には、とても難しいミッションに思えた。はじめてのヨーロッパでしかも一人旅、ショパン空港から175番のバスに乗り、いそいそとスーツケースを引っ張って、なんとかホテルにたどり着き、早速の翌朝一番である。バスには Miasto という表記が見える。ポーランド語で「街」という意味なのだが、私には Misatoにしか見えない、

失礼のないように一通りの挨拶文句は暗記し、日本のお菓子を手土産に事務所へ向かった。きちんと言われた場所に言われた時間にいったことで、チケットはそれほど大変な思いをせずに入手できた。コネチケットでありながら、現地人価格となっていた。座席は審査員席のすぐ近く。希望通りである。ここでも夢が叶った。私にとっての最高のショパン・ピアニストであるアダム・ハラシェヴィチからサインをもらい、握手し、写真も撮ってもらたえたのであった。この2005年から私の研究者人生がスタートしていると言っても過言ではない。

私の人生において、美里とショパンは非常に大きな位置を占めているだけでなく、偶然以上の関連があるのだ。少なくとも私にとっては。そんな奇跡の2005年からひと回り歳をとった。一通りの夢はほとんどが叶った。あとは仕事だけが課題なのだが、これについては縁と引きがあるかないかの問題だと思っているので、深くは考えないようにしている。でも、思うのだ。あの夏の軌跡を乗り越えて、ショパンに近づくことができた。そのおかげで『バイエル』では思わぬ宝探しに参加することができたのだ。これまでの来し方があって、今がある。そしてまた新たなページをめくるのだ。