皇紀2679年 平成31年 明治151年

明けましておめでとうございます。

快晴!  “初日の出”を家の中から拝みました。

朝帰りのクロは、“ごめん寝”中。  「おーい、息してるか?」

 

昨年最後の新教連学習会のテーマは「明治150年 五箇条の御誓文」でした。

 

〔1〕 五箇条の御誓文とは

『五箇条の御誓文』とは、明治政府の基本方針です。

「 五箇条の御誓文 」

一、 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ

一、 上下(しょうか)心ヲ一ニシテ盛ニ經綸(けいりん)ヲ行フべシ

一、 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ()マサラシメン事ヲ要ス

一、 舊來(きゅうらい)陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ

一、 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基(こうき)ヲ振起スべシ

我国未曾有ノ変革ヲ為ントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ(さきん)シ 天地神明ニ誓ヒ大ニ(この)国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ(たて)ントス (しゅう)(また)(この)旨趣(ししゅ)ニ基キ協心努力セヨ

明治元年三月十四日

この年の1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まりました。

五箇条の御誓文公布は戊辰戦争の真っただ中で行われました。

 

冒頭の二つは政治と経済のことです。

一、 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ

(議会を開いて、公正な議論を経て国の政治を進めましょう。)

議会政治の理念が謳われています。

江戸末期には“欧米諸国では、議会というもので政治が動いている”という情報が日本に入っていました。

新政府は立法府である議事所を設けました。

これは一見、各国の真似をしているように見えます。

しかし、日本においては、何事も公の議論を尊重して話し合いで物事を決める、ということはすでに神代の昔から始まっていました。

例えば、全国の神社で唱えられる大祓詞にこんなフレーズがあります。

「神集へに集へ賜い神議りに議り賜ひて」

例えば、天照大御神が岩戸の御隠れになったとき、「八百万の神々」が「神集い集ひ」て、天岩戸開きを企画したという神話があります。

例えば、聖徳太子の十七条憲法です。

十七に曰く、それ事は独り断むべからず。必ず衆とともによろしく論うべし。

これらは、五箇条の御誓文にきちんと受け継がれています。

 

一、 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ

(国を守るには経済が大切だ。経済を盛んにしましょう。)

自由経済の理念が謳われています。経済とは「経世済民」の略で、「世を(おさ)め、民を(すく)う」という意味があります。

  “経済政策は政治の重要課題” というのは、今も同じです。

 

〔2〕 王政復古の大号令

慶応3年(五箇条の御誓文公布の前年)10月14日、徳川慶喜は、「大政奉還の上表」を朝廷に提出し、朝廷はそれを受理します。

慶喜は「将軍職」を辞退し、全国の大名と同列に並びました。

幕府政治は一応は終わりました。

ところが・・・・

慶喜は、別のことを考えていました。

「たとえ将軍ではなくなっても、朝廷から諸大名の頭のようなものに命じられるのではないか」

300年続く、巨大な領地を有する“徳川家”の復活を模索していたのです。

一方、薩摩藩や長州藩の考えは違います。

「新政府は、絶対に慶喜抜きでなければだめだ」

慶喜と薩摩・長州のにらみ合いが続きますが、いよいよ、その決着をつけるときが来ました。

その中心人物 “岩倉具視” が、京都御所に参上します。蟄居の処罰が全面解除になったのでした。

持っていた小箱には「王政復古の大号令」が入っています。

岩倉は、16歳の明治天皇の御前にすすみ、王政復古を断行していただくよう進言します。

そして、王政復古の大号令が発せられました。

「王政復古の大号令」(慶応3年12月9日)

「今、天皇である私は、考えを固め、王政を復古し、国威を挽回するための基礎を樹立することにしました。

以後は摂政、関白、幕府などを廃止し、今、仮に総裁、議定、参与の三職を設置し、それらによって、

全ての日本の政治を行うようにいたします。

これからは、全てのことを初代神武天皇が日本の政治を開始されたときに立ち戻り、

何事も一からはじめ、公卿、武士の分け隔てなく、或いは、朝廷で昇殿を許されている者と、

昇殿を許されていない者のわけへだてもなく、正しく公正な議論を尽くしてまいりましょう。」

 

天皇の名において、それまで政権を委任していた摂政・関白・将軍の制度を廃止し、天皇親政を宣言されました。

平安時代からの摂関政治、鎌倉時代からの幕府政治の無効宣言です。

と同時にそれ以前の律令に基づく法体系の有効を確認されました。

なぜか・・・・・

無効宣言だけでは無法状態となり、社会の混乱をきたします。

大宝元年(701年)制定の太政官制度に基づく政治に一旦戻ります。

ここから、明治政府は改革を断行していきました。

 

〔3〕 新政府と旧幕府とのにらみ合い

王政復古の大号令が発せられたその日の夜、御所では、「小御所会議」が開かれます。

新政府と旧幕府側による初の国政会議です。

新政府は、あらかじめ御所の周りを軍隊で固めます。

思いっきり圧力をかけて会議は行われました。

岩倉は、慶喜に対して、

「内大臣をやめよ、領地を朝廷に返上せよ」

と迫ります。

地位剥奪と領地没収によって、徳川家の無力化を図ります。

ところが、いまだ無傷の徳川家は、簡単に承認できるはずがありません。

旧幕府と新政府との間で激しい睨み合いが続きます。

緊張状態は、最高レベル。竜馬と中岡が暗殺されたのもこのころでした。

その後、新政府と旧幕府との軍事的対立が、戊辰戦争へと進みます。

 

このような情勢の中で、竜馬と親しかった福井藩の由利公正(きみまさ)が、

慶応三年十二月から翌年の正月にかけて、ある文章の草案を作りました。

 

同じころ、慶応四年正月三日、「鳥羽伏見の戦い」が起こり、徳川軍と薩長同盟軍が激突します。

徳川軍1万五千に対し、薩長同盟軍は五千。

徳川の兵力を見て土佐藩は恐れをなし、日和見を決め込むほどでした。

この時まで、巨大徳川家が滅ぶなど、ありえませんでした。

ところが、大逆転が起きました。

薩長軍に錦の御旗が翻った瞬間、徳川方は賊軍、薩長は官軍となり、徳川方の雪崩現象が起きたのです。

 

その戦火の中で、新しい日本の姿が形をあらわします。

 

〔4〕 五箇条の御誓文公布

 由利公正の「議事の体、大意」

一、庶民、志をとげ、人心をして倦まざらしむるを欲す

一、士民、心を一にして、盛んに経綸を行うを要す

一、知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし

一、貢士、期限を以て賢才に譲るべし

一、万機公論に決し、私に論ずるなかれ

諸侯会盟の御趣意

 この由利の案は、まだ「会議心得」のようなものでした。

 

由利の案に、土佐藩の福岡(たか)(ちか)が筆を加えます。

「会盟

一、列侯(大名)会議を興し、万機公論に決すべし

一、官武一途、庶民に至るまで、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す

一、上下、心を一にして、盛んに経綸を行うべし

一、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし

一、徴士、期限を以て賢才に譲るべし

「会議心得」から、大名同士が互いに約束する「誓約書」へと変わります。

 

薩長同盟軍は大村益次郎と西郷隆盛の指揮のもとに進軍が続きます。

いよいよ江戸城総攻撃の準備が整いました。

ところが、総攻撃の前日、西郷隆盛と勝海舟の会見によって、中止になりました。」慶応4年3月14日です。

 

同じ日、京都では、「五箇条の御誓文」が公布されます。

原案は、由利と福岡によるものです。

しかし・・・・・

幕府の力はほぼ消えつつある今、それは大名会議の「会議規則」や大名同士の「誓約書」である必要はありません。原案を新しい日本の「国是」に仕立て上げたのは木戸孝允でした。

木戸孝允は、建議を行っています。

「天皇が神々に誓うかたちで『国是』を確認し、それを『天下』に示すべきである」

 こうして『五箇条の御誓文』は完成しました。

 

〔5〕維新は外国の革命にあらず

吉田松陰、坂本竜馬 勝海舟 伊藤博文 西郷隆盛 高杉晋作 桂小五郎 大久保利通・・・・

維新の志士たちは、当時、人々から英雄と見られていたのでしょうか。

しばらくの間、故郷の人達からは嫌われていました。

明治維新という政治変革を断行した武士たちは、幕府の「既得権益」を取り上げました。

そして幕府は消えました。次に廃藩によって、自分たちの「既得権益」まで捨ててしまい、

そろって「失業」し路頭にまようことになったのです。

維新後の士族たちは、先祖伝来の「既得権」を奪われ、日々の生活にも不安を感じていました。

そういう士族たちにとって、彼らは“古き良き時代の破壊者”に過ぎなかったのです。

明治10年の西南の役が、士族反乱の最後でした。

 

〔6〕 戦後登場する『五箇条の御誓文』

昭和天皇さまの「新日本建設に関する詔書(昭和21年元旦、)」中に『五箇条の御誓文』があります。

【冒頭】

ここに新年を迎えました。

かえりみれば明治天皇は、明治のはじめに国是として五箇条の御誓文を下されました。

そこには次のように書かれていました。

一、広く会議をおこし、万機公論に決すべし。

一、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし。

(中略)

明治大帝のご誓文は、まことに公明正大なものです。

これ以上何をくわえるのでしょうか。

朕は、ここに誓いを新たにして、国運を開こうと思います。

(以下略)

 

昭和52年8月23日

昭和天皇さまの記者会見のお言葉です。

「それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。

(中略)民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。

そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、

民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要があったと思います

「日本の誇りを日本国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。

日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったということを

示すために、あれを発表することを私は希望したのです」

(引用は高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』)

 

昭和天皇さまは、敗戦のとき、『五箇条の御誓文』の精神に戻って日本の再建に頑張ろうと呼びかけられたのでした。

 

参考図書

・明治維新という大業 松浦光修 明成社

・帝国憲法物語 倉山満 PHP