来年は、光格天皇以来200年ぶりの譲位が行われます。

報道によると、天皇陛下はご譲位の意向を示された当時、「光格天皇の事例を調べるように」と宮内庁側に指示されたということです。

どのような方だったのでしょうか。

 

(前回の続き)

 

3 傍系から9歳の天皇が誕生

光格天皇は今上陛下の直系のご先祖様です。

 

1771年8月15日に生まれ、1840年11月19日に70歳で亡くなりました。

天皇位につかれたのはわずか9歳。

しかも閑院宮家という傍系からです。

後桃園天皇の養子となって皇統を嗣ぎました。

天皇家からの血筋が遠いことで光格天皇は公家からも幕府からも軽んじられていたといいます。

幼い光格天皇の行く末を案じられた後桜町上皇(前の前の天皇)は、天皇に学問をするように熱心に勧めました。

 

4 天明の大飢饉と御所千度参り

光格天皇が16歳のときです。

1787年(天明7年)、悪天候と浅間山の噴火によって凶作が続き、江戸時代最悪と言われる天明の大飢饉が起きました。

餓死者は30万とも50万ともいわれています。

コメの値段が高騰し、全国で一揆・打ちこわしの嵐が吹き荒れました。

将軍のお膝元江戸でも初めて大規模な打ちこわしが起き、幕府の支配はマヒ状態となってしまいます。

京都の人達は、町奉行所に何度も嘆願しますが、一向に効果のある対策を取らない。

凶作は天災ですが、凶作が飢饉になるのは政策の失敗。

飢饉は幕府の威光を失墜させました。

そのようなとき、ある現象が始まりました。

天明7年6月7日、数人の人が御所を訪れ、門の前から天皇のおわすあたりに向かって手を合わせ祈り、賽銭を投げていく。

御所を囲む一周1.3kmほどの築地塀を廻り、また手を合わせて祈る。

御所を訪れる人の数は次第に増え続け、7月10日には約一万人、7月18日には約7万人にまで膨れ上がったと言います。

「御所千度参り」とでも呼ぶ光景です。

京都の人々だけではありません。大坂や近国にまで広まりました。

また、千度参りをする人々に施しをする人も現れました。

後桜町上皇からはリンゴがふるまわれ、宮家・公家からは門前で茶がふるまわれ握り飯が配られました。露天商が出て、祇園や島原からは遊女が着飾って御所にやってきて、千度参りを盛り上げてくれました。

もはや、町奉行所に頼んでもダメ、頼れるのは「天子様」。

天皇に祈願し救いを求めました。

それが、「御所千度参り」という形になったのでした。

 

5 天皇の窮民救済

全国的な飢饉で人々は飢えに苦しむ、江戸・大坂など都会では打ちこわしが頻発する、京都の御所では千度参りが熱病のように行われている。

御所千度参りが万に達したとき、光格天皇と朝廷は行動を起こします。

幕府に対して、「窮民救済の申し出」を行ったのです。

武家伝奏は京都所司代に天皇の意志を書いた「書付」を持っていきます。

これは異例中の異例。

なぜなら、「禁中並公家中諸法度」に対する明確な違反行為だからです。

違反の咎により幕府は天皇を廃位することもありえたのです。

交渉はおそるおそる始まりました。

「勘違いしないでくださいね。正式な申し入れの文書ではないですよ。伝える内容を間違えないためのメモですから」

と念を押すほどおずおずと伝えました。

そして、どうなったか・・・。

幕府にあわせて1500石の救い米を放出させるという成果を生んだのです。

また、朝廷の異例の申し出に何ら問題視された形跡はなし。

朝廷が幕府の政治に介入し幕府がそれに従った、という前代未聞の出来事が起きました。

なぜ、「禁中並公家中御法度」を無視する行動が出来たのでしょうか?

これは御所千度参りという圧倒的な輿論の支持があったからでしょう。

50年後。天保の飢饉が起きました。

仁孝天皇(光格天皇の次の天皇)は、幕府が窮民救済の措置を講じているかどうかを問う文書を所司代に渡します。

今度は当然という態度です。先例があれば、怖いもの無し!

幕末には朝廷にお伺いを立てるまでになりました。

 

6 神事、儀式の再興

 光格天皇のご事績はまだあります。

① 新嘗祭

応仁の乱から戦国時代にかけて、古代律令制に基づく様々な朝廷の行事、儀式が廃絶したり、不十分な形になっていたものがありました。

光格天皇はこれをなるたけ古来の形式に復興させることを目指しました。

新嘗祭は、宮中で最も重要な祭祀です。

光格天皇はこれを復興させますが、儀式の場は紫宸殿でした。

古来の形式(神嘉殿で天皇が親祭する)に戻すために、幕府に相談することなく御所内に神嘉殿を造営してしまいます。

名実ともに新嘗祭が復古しました。

天皇が即位して最初におこなう新嘗祭が大嘗祭。

光格天皇は、御所千度参りの年の11月に大嘗祭をおこなっています。

 

② 石清水八幡宮の臨時際

 石清水八幡宮と賀茂神社は、朝廷から特別に崇敬を受けていました。

数々の行事を復興させ、最後の仕上げは、両神社の臨時際の復興でした。

特に石清水臨時際は、国家の危機にさいして国家の安泰を祈ることから始まった神事です。

その臨時際が380年ぶりに挙行されました。

 

7 天皇号の復活

天皇・上皇崩御の後に贈られる名前を「天皇」号と言います。

光格天皇は皇子の仁孝天皇に譲位して上皇になり、70歳で生涯を終えました。その翌年に『光格天皇』と贈られました。

「えーっ、光格天皇!」

江戸でも京都でも人々はビックリ仰天です。

上皇に『光格天皇』と贈っただけなのに・・・。

以外かもしれませんが、江戸時代、天皇のことを『(しゅ)(じょう)』とか『禁裏(きんり)』などと呼び、『天皇』とは呼んでいませんでした。

『天皇』は馴染みのない呼び方でした。

以下のように、光格天皇までの贈り名「~院」でした。

116代 桃園院

117代 後桜町院

118代 後桃園院

119代 光格天皇

初代から整理しますと、

村上天皇以来874年の間眠り込んでいた「天皇」号に、人々はビックリしたのです。

江戸時代は、町人・百姓身分でも裕福であれば戒名に院号を付けることが出来ました。

「天皇」号の復活は、、天皇が日本国においては特別な権威的存在であることを宣言したことなのです。

光格天皇は、古代天皇制にまつわるさまざまな儀式・神事・建物などを復古・再興させ、最後を「天皇」号復活で飾りました。

光格天皇が行ったのは朝廷権威の強化です。

これが孫の孝明天皇へと引き継がれ、朝廷は政治の表舞台に躍り出ます。

その基礎を築いたのが光格天皇でした。

 

 

参考図書

・幕末の天皇 藤田覚 講談社学術文庫

・上皇の日本史 倉山満 祥伝社新書