8 3つの学説

日本国憲法は、成立の正当性の見地から3つの学説があります。

 

■①憲法無効説

占領下での帝国憲法の改正は法理論上不可能だった」というものです。

 

理由が2つあります。

(a)帝国憲法第75条の改正規定に抵触する

帝国憲法には、元首の代行である摂政を置く間は改正できないという規定があります。

〇帝国憲法第75条 憲法及ビ皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス

新憲法の成立は、占領下でした。

日本が独立を奪われ、天皇大権を否定されていた時期でした。

このときの憲法改正は本来不可能でした。

 

(b)国際法に違反する

 国際法は、占領地の法律は尊重せよ、支障のない限り変えてはならない、としています。

〇ハーグ陸戦法規条約付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」

「国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない」

 

にもかかわらず、占領軍は国際法に違反してまで圧力をかけ強行にやりました。

日本は、占領下という異常な時期に国家の最高法規を発布することになりました。

であれば、占領が終われば一旦占領前の状態に戻すのが筋であると考えます。

 

これをやった国があります。

フランスは4年間、オーストリアは7年間ドイツに占領されていた時期がありました。

両国とも開放直後に占領期間に定められたすべての法令の無効を宣言しました。

 

■②「改正憲法説」

「日本国憲法は、帝国憲法の改正手続きに従って瑕疵なく制定された」というものです。

従って、帝国憲法と日本国憲法との間に連続性があると考えます。

しかし、その中身は全面改正です。

家で言えば、増改築申請を出して、丸ごと作り替えたということです。

これを改正と言えるのかどうか、疑問が残ります。

 

制定当時、「憲法改正に限界はあるか」という議論があったようです。

特に、帝国憲法第一条から四条までの国体を定めた条文です。

 

「限界はある」と主張した一人に清水澄憲法学博士がいます。

その清水博士は、昭和22年9月25日、帝国憲法に殉死すると遺書を残し自決されました。

 

「限界はない」と主張した一人に、京都学派佐々木惣一博士がいました。

「全く姿形が変わっていたとしても、帝国憲法の改正憲法なのだ」

「もし、国民の心が皇室から離れ、憲法改正により国体を変更しようとしたとき、これが憲法典の条文といえども押しとどめることは不可能。改正限界説は取れない」

 

■③「八月革命説」

  ― 略します -

 

9 宮澤教授の変節

昭和15年(1940年)10月12日、日本に大政翼賛会という組織が出来ました。

以下、江崎道朗氏の著書『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』を引用します。

■選挙で選ばれたわけでもない、大政翼賛会という団体が日本の政治を牛耳る方式は、議会制民主主義の否定であり、大日本帝国憲法の否定だと、佐々木は主張したのだ。そして、ナチス・ドイツのような一党独裁の国家体制を定めた法律のようなものは、帝国憲法下では絶対に許されないと獅子奮迅するのである。(P238)  

 

■当時の憲法学者がみな、佐々木惣一のような剛毅の士であれば、大日本帝国憲法は空洞化せず、日本の全体主義化も防げたかもしれない。だが残念ながら、阿諛追従の学者というものいるものである。

 東京大学の宮澤俊義は『改造』昭和16年1月号の「大政翼賛会運動の法理的性格」という論文で、大政翼賛会には憲法上の問題は全くないばかりか、日本建国以来の原則にかなうものだと言わんばかりの議論を展開した。(P242)

 

■本来ならば、議会制民主主義を謳っている大日本帝国憲法のもとでは、一党独裁のような政治体制をとることは許されない。複数政党による議会制民主主義こそ、多様な意見を踏まえた、より良い政治を生み出すとの政治思想に大日本帝国憲法は立脚している。

 にもかかわらず、宮澤は、戦時体制へ移行していく上で政党がその役割を十分に果たさなくなってきている以上、時代の変化に従って大日本帝国憲法の「解釈」を大きく変え、大政翼賛会という一党独裁体制をとることはむしろ「当然だ」と述べるのである。(P244)

 

■宮澤は戦後、GHQによって強制された「日本国憲法」を正当化する学説を主張し、GHQによって大きく評価され、戦後も憲法学の世界で君臨することになった。(P247)

この学説が「八月革命説」です。

 

引用図書

江崎道朗『コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書)2017年8月24日』

倉山満『帝国憲法物語(PHP研究所)2015年5月22日』