アメリカに對する細菌兵器攻撃を提案した小沢治三郎提督 | 日本國人

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令和元年・紀元2679年10月1日開始。

 アメリカは、我が國に對し、こともあろうか、純粋な軍事基地ではなく、廣島・長崎といった、民間人が多く居住する大都市に、原爆攻撃を行った。しかし、我が國は、同様の攻撃を、反撃としてすら、アメリカに對して行ってはいない。

 では、我が國が、そうした残虐なる攻撃・反撃を行わなかったのは、そういった攻撃を行えるだけの能力・装備がそもそも無かったからか、と言えば、それは違う。我が國は、アメリカが我が國に對して行ったような、無差別というより民間人を狙った大量虐殺攻撃を行う能力・装備は、あったのだ。そして、實際にそれを行おうという動きもあったようなのである。ちなみに、日本も原爆を完成・實驗に成功していたという説は、ここではおいておく。

 その一つは、我が國が大東亞太平洋戰中に開發した、世界初の大陸間兵器たる、風船爆彈に、病原細菌すなわち生物兵器を搭載してアメリカを攻撃しようという作戰であった。發案者は、小沢治三郎提督

 小沢提督は、昭和十九年六月に、主力空母艦隊指揮官として、マリアナ沖海戰の指揮をとり、”アウトレンジ戰法”を發案してのぞんだものの、惨敗。そして、日本海軍聯合艦隊は、事實上壊滅、日本本土をB29爆撃機の爆撃作戰距離範囲内にあるマリアナ諸島が、アメリカの手に渡ってしまった。その後、同年十一月に、軍令部次長となっていた小沢提督が、この、風船爆彈による細菌兵器攻撃計畫を提案したのだ。

 しかし、海軍上層部は乗り気であったものの、大日本帝國陸軍は反對、昭和天皇も、終戰の詔勅に”殘虐ナル”兵器は”我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ”と記されたが、當時も反對なさったようで、實現はしなかった。

 ところが、小沢提督は、生物兵器使用による戰況挽囘をあきらめなかったようで、同年十二月、今度は、PX作戰なるものを發案したという。これは、これまた我が國が開發した、世界海軍史上空前の、地球上どこの海へも到達・往復可能な航続距離を持つ潛水艦空母とその艦載機を使い、アメリカ西海岸に、病原細菌を持ったネズミや蚊を放とうという作戰であったという。しかし、これもまた、海軍上層部は賛同したものの、帝國陸軍参謀長であった梅津美治郎將軍が反對、實行されなかったという。

 戰後日本では、惨敗し續けたにも關わらずほとんど負け知らずであった帝國陸軍よりもなぜか評判が良い(?)海軍の、さらに、やはり評判がよろしいようであまり惡口が聞かれない、小沢治三郎提督は、實のところ、大の生物兵器無差別使用の積極的推暹者だったようだ。逆に、強かったにも關わらず戰後日本ではなにかと評判が惡い帝國陸軍の、さらにA級戦犯ということで獄中死なさった梅津美治郎將軍は、よく昭和天皇の意を體された、人道的な將軍だったようである。

 かと言って、生物兵器によるアメリカ攻撃を積極的に提案した小沢提督が、惡逆無道で許されざる提督であったとは思わない。いったん戰爭が始まった以上、勝つためには手段を選ばず、が正しい可能性もあることは、現代に至る戰後日本の惨状がよく表している。もとより、小沢提督が好んで大東亞太平洋戰爭をしかけたわけではなく、戰爭責任はアメリカにこそあるのであるし。

 

紀元二六八ニ年 令和四年 九月二ニ日