結界を張っている 溝咋神社(みぞくいじんじゃ) | 大山蓮華

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ちょっと不思議な体験や感じたことを
古文献や民話や伝承などや遺跡の発掘資料などを参考にして
謎解きをしています

 

 

 

 

  月読命を調べていたら

  月読命はオコゼが好きな女神とありましたが

  大山祇神はオコゼを奉納する風習があるという

 

 

  大山祇神社は 伊予風土記によると

  「難波の高津宮の仁徳天皇の御代に顕現された

  「大山積神は 百済からやってきて摂津の御島に坐す

 

  ・・・神話のような気もしますが

 

  創建・祭祀に関わっている越智氏は物部氏の末裔と思われます

  創建は594年に上浦町瀬戸に建てられた横殿宮(横殿神社)で719年に遷座

  祭神は大山積神 亦の名を和多志の神

 

 

 

 

  摂津の御島をサーチすると 不思議な神社がありました

 

 

 

  オザサさまの画像(1/28)をお借りしましたが

 

  この 注連縄って低くありませんか

  これは結界なのかな

  この画像のように 

  地元の人?は鳥居はくぐらず 鳥居の右側から通っていくようです

 

 

 

 

  こちらの鳥居の注連縄も低い・・・

 

 

  さらに

  この神社の公式サイトがなかなか見つからなかった

 

  やっと見つけたけれど・・・

 

 

  広告で覆われているし・・・

  この広告をいくつか消してみたけれど きりが無い

  次々出てくる公告はた~~~っぷりあります

  結界を張ってあるのかな

 

 

 

 

 溝咋神社   茨木市五十鈴町9-2 (神社本庁に属していない)

 

  祭神は タタライスズ媛・溝咋玉櫛媛

  相殿には 溝咋耳命・天日方奇日方・・・

  摂社には 事代主神社

 

  元は 川を隔てて上社・下社があったそうです

  上の宮には タタライスズ媛・溝咋耳命・天日方奇日方を祀り

  下の宮には 玉櫛媛が祀られていたそうです

  明治42年に 下社に合祀された

 

 

  タタライスズ姫は ヤマト初代大王の妃となりました

  玉櫛姫の父が溝咋耳命

  事代主と玉櫛媛の子が 天日方奇日方とイスズ媛とイスズヨリ媛

  天日方奇日方は 初代鴨氏

 

  五十鈴と玉櫛は地名として残っています

  溝咋神社の所在地は五十鈴町

 

 

  ホツマツタヱによると ミゾクイは出雲の分家のようです・・・

 

  斎木氏著の「出雲と大和のあけぼの」によると

     活玉依姫の実家の三島家は 

     出雲王家の向家と血縁が深かったので出雲の王族とみなされていた

  一度くらいの婚姻関係ではなく 分家の可能性が高いですね

  ホツマツタエでは 出雲王家の三代目の分家らしい

  クシヒカタの父の 事代主は八代目・スクナヒコ

 

 

 

 

 三島鴨神社  高槻市三島江2-7-37  (神社本庁に属していない

 

  公式サイトには由緒が記載されていません

 

  仏教伝来の200年前に鎮座されたと記されている(仏教伝来は536年とされています)

  祭神は 大山祇神と事代主神

 

  三島江は 淀川の中洲(川中島)のことで玉江と呼ばれていた

  1598年淀川堤防の修築の祭に現在地に遷座したらしい

 

  元は三島神社と称していたらしい

 

 

  三島鴨神社史によると

   玉江・玉川湖沼・安威川流域には「玉江の主」の一族がいた

   淀川は山背(やましろ)川と呼ばれていた

   利用していたのは渡来人で 秦氏の系統が多かった

   「玉江の主」の一族は朝廷から大山積神の祭祀を命じられていた

 

 

  大山積神の祭祀は 朝廷の命令だった!

  大山積神は 物部(秦氏)によって創作された神!?

  これが 結界の理由だったのか・・・

 

  現在の溝咋神社の祭神は 溝咋一族だけど

  「玉江の主」であるミゾクイは 大山積神の祭祀を朝廷に命じられた

  神社の由緒に「朝廷に命じられて大山積神を祭祀した」なんて書けませんよね

 

 

 

 

 

 神社  高槻市赤大路町42-3

 

  公式サイトの由緒によると

  創建は初代神武天皇から第9代開花天皇(4世紀初め)までの

  葛城王朝を支えたに鴨氏により3世紀頃創建されたとの伝承がある

 

  4世紀末の仁徳天皇(在位393~427)の時代に百済から武寧王が渡来した

 

  大山積命は

  「伊予風土記」(713年)では 百済からの渡来人が祭った神とされている

 

  百済の第25代武寧王(斯麻王)の没(523年)により

  これを「斯麻の神」「嶋の神」さらに「御嶋の神」としても祭られ

  別名「和多志の大神」(海の神)とも記されている

 

  当社の祭神は創建当初は鴨御祖大神

 

 

 

 

 

 

 

  溝咋神社・三島鴨神社・鴨神社は

  応仁の乱以降の戦乱によって全てを消失しているそうです

  鎮座地も由緒も定かではないらしい

 

 

 

 

 

 

  年代を追ってみると

 

  ・「玉江の主」の一族とはたぶん・・・ミゾクイ(溝咋)

 

  ・事代主は ミゾクイの娘の玉櫛媛と結ばれた

 

  ・その子は天日方奇日方とタタライスズ媛とイスズヨリ媛

 

  ・事代主の没(紀元前219年?)後 玉櫛媛と3人の子はミゾクイの元に移住

 

  ・天日方奇日方・タタライスズ媛・イスズヨリ媛は葛城に移住して鴨氏と呼ばれた

   (鴨神社由緒では3世紀頃の創建と伝承されていますが・・・紀元前の間違いか)

   (タタライスズ媛は三輪山の初代姫巫女)

 

  ・第16代仁徳天皇の時代に茨木堤を築く時に物部(秦氏)の援助もあったことにより

    秦氏の創作した大山積神の祭祀を命じた

 

  ・仁徳天皇(在位393~427)

   (鴨神社の由緒では仁徳天皇の時代に武寧王が渡来したと記されていました)

 

   (仁徳天皇の在位年代と武寧王の生没年は一致しません)

 

  ・百済の武寧王(462~523)が渡来した

   (人質として倭国に渡来した王女が筑紫の各羅嶋で生まれた子を嶋君(斯麻)と名つけ

    百済の東城王が殺害された502年に百済の王になった・・・らしい)

   (海を渡ってきたので 渡しの神と呼ばれる)

 

   以下は妄想です

  ・斯麻が移住していたことから玉江の地は御嶋江(三島江)と呼ばれるようになった

   「玉江の主」のミゾクイは 三島のミゾクイと呼ばれるようになった

 

   伊予風土記によると

  ・594年に(物部の末裔の)乎千氏が摂津から大三島に大山積神を勧請した