元大学教授で 古代民族学会会員の
斎木氏は
出雲族の古老の伝承と 各地の豪族の伝承をまとめました
それによると
本州に渡ったクナト族(サルタ族)は東北地方に住んだ後
各地に分かれていったが
クナト王の子孫は
日本海沿岸を南下して 出雲の地に着いた
伝承によると 「出雲には黒い川があったからからだ」
黒い川というのは 現在の斐伊川であろう
川底や川原に砂鉄が溜まって黒く見えたということらしい
春に芽が出た森の色が美しかったので
「出芽(いずめ)の国」と呼んだ
発音が変化して出雲になったという
争いを好まない民族だったのかもしれませんね
縄文の遺跡を調べると 争った跡が無いといわれています
出雲王国は武力ではなく
マツリゴトに参加することを説得して支配領土を広げていったようです
神話では国引きといわれています
マツリゴトはインドの風習で春分の日と秋分の日に行われていた
民族の守護神をサイノカミと呼んだ
父神をクナト大神 母神をサイヒメ(幸姫) 息子神はサルタ彦
民族の守護神とは 先祖霊のことだったようですね
インドでは
ワニは川の神とされ コブラは森の神とされていた
これが合体されてナーガ(竜神)となり ドラビダ族に崇拝された
出雲では竜神はサイノカミの眷属神となっている
出雲では 東の山から登る朝日を拝む習慣となっていた
春と秋の年2回の大祭の時には オオナモチの后が司祭となり
クナト大神を遥拝した
出雲王国初代の王は管之八耳(ヤツミミ)
初代の王には二人の息子がいたので 直轄地を二つに分けた
東の王家は 出雲臣 (トビ家=富家)(向家ともいう)
西の王家は 神門臣
臣は 出雲王族を意味する
クナト王の子孫をオオナモチと呼び マツリゴトを行事とした
妃が司祭となって春と秋に太陽に祈りをささげていた
東と西で交互に 王と副王をたてていた
王はオオナムチ(大穴持) 副王はスクナヒコ(少名彦)と呼ばれていた
オオナムチとは
野タタラの横穴のことで 鉄の生産者の支配者ということです
出雲王国は タタラによる鉄の生産によって繁栄した
出雲王国は紀元前400年頃成立して225年頃まで続いた
鉄の生産は
遺跡などの年代測定によると
中国の影響ではなく インドから直接伝わったとされています
出雲のタタラによる鉄は 各地の人々に重宝されていた
出雲の交易品には 首飾りに使われる玉類もあった
勾玉は出雲族の象徴だった
6代目出雲王オミツヌ(神門臣家)の
王子アタカタス(吾田片隅)が九州に進出してムナカタ家(宗像家)を興した
神門臣家は 佐和気が継承 (アタカタスは長男だったようですね)
アタカタスの子が 田心姫・多岐津姫・市杵島姫
オミツヌは神門の郡に住んでいたので長浜神社の祭神はオミツヌ
オミツヌは伊勢に移住したとも伝えられ・・・
イセツヒコ(伊勢津彦)はオミツヌの子孫のようです
イセツヒコ = 出雲建子・櫛玉命などとも記されています
オミツヌは 於美豆奴・大水主とも記され 伊勢では大水神として祭られています
7代目出雲王は出雲臣家の天乃冬衣
妃は 田心姫で 子は八重波津身と高照姫
8代目の王・ヤチホコ(八千矛) ←記紀では大国主
オミツヌの子
妃の多岐津姫との子は アジスキタカヒコと美良姫
妃の因幡の曳田八上姫との子は 下照姫と天の雅彦(あめのわかひこ)
ヤチホコは 伊勢では大歳紙神として祭られているようです
伊左我命は 櫛八玉命とも記されています
伊左我=伊左波らしい・・・伊射波
伊雑宮(いざわのみや)
イザワトミは 伊左波登美? 伊射波登美?
イザワトミは 出雲臣の八重波津身の子・クシヒカタの子孫のようです
出雲族がこの地へ移住してくる前に先住民がいたようです
それが磯部氏族・・・
磯部氏族は太陽を祭っていたムーの末裔かもしれませんね
伊雑宮は太陽神を祭っているようです
8代目の副王は八重波津身(やえなつみ) ←記紀では事代主
(八重波津身=事代主=一言主=恵比寿)
妃は奴奈川姫(ぬなかわひめ) 子は建御名方富(たけみなかたとみ)(諏訪家)
妃は三島の玉櫛姫 子は天日方奇日方(クシヒカタ)とイスズ姫とイスズヨリ姫
妃は鳥耳姫 子は9代オオナモチとなるトリナルミ(鳥鳴海)←蚊屋島神社
妃は・・・
クシヒカタの妃は 美良姫 子は淳名姫(ぬなぞこひめ)
クシヒカタの母の玉櫛姫については 過去記事の<溝咋神社>を参考にして下さいませ
8代目の王の時に
穂日を先に上陸させた徐福一行が渡来したのは紀元前219年
9代目の王はヤエナツミの子トリナルミ(鳥鳴海)
だが
徐福とその一行の人達との共存を嫌った出雲族の一部(半数くらい)は出雲の地を去っていった
クシヒカタは妹たちと共に母・玉櫛姫の地へ行き
その後 ヤマトに移住して開拓した
富氏の伝承によると
初代オオナムチ・管之八耳(すがのやつみみ)は
多くの者たちの声に耳を傾けたという
妃は稲田姫
また
出雲王家は17代でその前のクナトは57代と伝えている