弁才天さんを探して 7
三峰神社の由来を探ってみました
三峰神社は
明治元年(1868年)3月 明治政府による神道と仏教を区別する宗教政策により
三峰神社と改称されました
国家神道の方針によって廃仏毀釈運動が起こりました
それまでは 神仏習合の修験のお寺さんでした
文政9年(1826年)に完成したといわれる「新編武蔵風土記稿」には
「 三峰権現社は 山頂平坦の地にあり
祭神 元禄年中の書上には 国常立尊・伊弉冊尊二神とす
十一面観音を本地仏とす
本地堂或いは護摩堂とも伝 十一面観音木立像 弘法大師作
奥院 雲採・白岩・妙法ヶ嶽の三峰高く峙てあるを以て山号とせり
行者堂 神変菩薩を安ず 木坐像 自作なりと伝
1353年に戦によって山主も絶えて 三峰は衰退しました
三峰の信仰が広まったのは
文亀二年(1503年) 月観道満が修験の霊場としたことが大きな要因らしい
2002年には月観入山五〇〇年記念だったらしい
月観がお堂を再興して以降 天台修験の関東総本山
観音院高雲寺と称し 三峰大権現と呼ばれました
(大権現とは 仏が神の姿で顕われるということです)
その前は・・・
古い「当山縁起」によると
「 53代淳和天皇(786~840)の勅によって
空海沙門 東に下るの時 当山にて大明神を拝し・・・
十一面観音の尊躰を造奉りて安置し・・・
淳和天皇の在位は823年~833年
空海は835年4月22日没
空海が観た「明神」とは
仏教の立場から見た「神」のこと
・・・ 十一面観音に反応する 蓮華です
「十一面観音」さんは 「自然神」の垂迹であることが多い
自然神の女神さんが ここでは弁才天ではなく伊弉冉かな
上に書いたように
役小角も来て 自分の像を刻んだのでしょうか
三峰山博物館には
前鬼と後鬼を従えた役行者像(江戸時代:作)が展示されていました
同じく江戸時代:作の十一面観音像も展示されています
現在の国常立神社殿のところにあった護摩堂に安置されていた
室町時代:作の 不動明王立像の目は平常眼という珍しいものです
博物館に展示されていました
通常お見かけするお不動さんの目は
右目は上を見て 左目は下を見ているといわれていますが
こちらのお不動さんは左右同じような目をしていました
修験とは 鉱脈を探していた人のことでもあるらしいが・・・
白山の修験も来ていたらしい
三つ鳥居鳥居を潜って歩いていくと 左に随身門 右に遥拝所
真っ直ぐ行った先には ヤマトタケルが立っている
どこを見ているのだろう
タケル目線で撮ってみました
左の山がたぶん妙法ヶ岳
自分の影で方角を確認すると
ヤマトタケルは南を向いている
* 自分の影で方角を確認するには
例えば9時のとき
時計の短針の9時に 自分の影を合わせると 12時の位置が北になる