城と肱川をへだてた対岸に武田斐三郎(あやさぶろう)の生家があった。
20年前の大洲市は、斐三郎の業績をよく知らなかったらしく、生家の保存にまったく関心がなかった。
「どうかお好きなように壊して下さい」と言ったので、駐車場になってしまった。


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五稜郭をつくった斐三郎は、大洲藩の下級武士の次男坊として生まれた。
子どもの頃に父親を亡くし、兄弟は母親に育てられた。
彼は母親大好きの甘えん坊だったが、科学に興味を持ち、板を合わせて小舟を作って肱川に浮かべて遊んだりしたらしい。
その舟の出来栄えのずごさに大人たちは舌をまいたという。

勉強ができた兄は藩校の教授になり、斐三郎は藩主に願い出て緒方洪庵の適塾で学ばせてもらった。
その後、洪庵の紹介で、佐久間象山にも学び、ペリー来航のときは、象山に連れられて吉田松陰といっしょに黒船を見に行って、『三浦見聞記』を著した。
幕府はその才能を認めて、斐三郎を旗本として取り立て、やがて、函館に、北方防備のための城の設計建造を命じた。
外国との戦いを考えて造られた城が五稜郭である。

函館の彼のところには全国から多くの若者が集まり、勉強だけでなく、実際に作った船で日本一周したり、ロシアへ修学旅行にも行っている。
その生徒から、榎本武揚、前島密、井上勝など多くの人材が育った。

五稜郭にあるこの彫像の顔が光っているのは、なでると頭がよくなるという伝説が広まって、みんなが触るからである。
維新後は、近代日本陸軍創設にかかわり、東京の芝の東照宮のところに業績をたたえた大きな碑がある。
彼は、函館では、このように知られているのに、故郷の大洲で知る人はほとんどいないようだ。

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