文字数:1831文字(原稿用紙約5枚弱)

 

※おことわり ブログのシリーズとは全く関係がなく、“ある人生の回想録”の記事を補足するような話ですのでご了承ください。

 

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私の略歴はこちらです。

 

 

 

2012年(平成12年)9月27日(木)の夜に出発して上京した私は、鎌倉や白洲次郎の邸宅であった武相荘を訪問し、その合間には大学時代のゼミの先輩であるTさんと会うなど楽しい時間を過ごし、9月29日(土)には大学時代の恩師であるT先生の誕生会にも参加して、足掛け4日間の旅行を終えて9月30日(日)に帰郷しました。

 

着いたのは昼前くらいではなかったかと思いますが、家に戻ると父は不在で、父の部屋のテーブルには親類の方が亡くなった案内か何かがおかれていた記憶があり、その事で親類の方が亡くなって、父はそのために不在である事を知りました。

 

その方は同じ姓の方で、血縁関係はないものの、私の住む地区の同じ姓の一族の総本家のような家の方で、家督を継がれているOHさんのお母様でした。

 

OHさんは父の1歳下くらいの、顔は沢田研二さんと役所広司さんを足して割ったような彫りの深い腕がいい大工さんで、1996年(平成8年)に新築した祖母と伯父一家の家を建ててくれましたが、この頃は東日本大震災からまだ1年余りという事とその腕の良さもあって、仕事が引も切らない状態でした。

 

また、この時すでに亡くなってはいましたが、OHさんのお父様であるOMさんもご立派な方で、大東亜戦争中は南方の激戦地で戦われて復員した方でした。

 

伯父の家が氏神である神社のお世話係である総代さんを長く務められましたが、いつも姿勢がよくて、私の中では元首相の中曽根康弘さんと重なる所があり、私達一族の総本家の長に相応しく、それが似合う方でもありました。

 

亡くなられたOHさんのお母様は90歳くらいではなかったかと思いますが、OHさんのお父様であるOMさんの奥様が早くに亡くなられた後に嫁いでこられた方で、祖母と親しかった事もあり、保育園の頃は祖母達の温泉旅行などにも一緒に行って、よく可愛がってもらっていました。

 

父はOHさんのお母様が亡くなられた事を携帯電話に連絡はしてきませんでしたが、私がお世話になった人である事もあり、同じ親類という事で私も知らないふりをしているわけにはいかず、地元紙の死亡広告を見ると、この日の夕方がお通夜という事を知った私は、お通夜に向かうべく準備を始めました。

 

お通夜が行われるのは、仮設住宅から2キロくらい離れた、東日本大震災後には避難所にもなっていたお寺でしたが、お通夜に行くに際して考えたのは徒歩で行こうか自転車で行こうかという事でした。

 

 

自転車で行くとなるとスーツのパンツが割けるような不安がありましたし、かといって歩いていくと、田舎道でスーツを着て歩いているのは目立つのでそれも避けたく、どちらにしようか迷ったものの結局歩いていく事にしましたが、途中で私が電話加入権を借りたままになっていて、祖母の家の近所だった酒屋のIさんが通りかかり、その車に乗せていただいて向かった記憶があります。

 

 

親類のお通夜に行ったのはこの時が初めてではなかったかと思いますが、お通夜や葬儀に行った経験はこの時までほとんどなかった事もあり、どのようにしたらいいのかなわからず不安だったのを覚えています。

 

後に書いた日記には、この時の事について自らの不作法を改めて反省し、心から詫びると書いており、何か失敗はしたのだと思いますが、拝み終わった後は少し親類の人達と話して過ごした後に帰宅しました。

 

東京から戻ってゆっくり休めるかと思いきや、突然の訃報を知って対応する事になり、帰ってきた日も落ち着けたのは夕方になってからでしたが、多くの事があった9月はこうして終わり、私は10月を迎えました。

 

10月1日(月)から再び仕事が始まり、この日の登庁後には部署内で東京土産を職員さんの机において回り、それとは別に同じ嘱託員のYNさんとFMさんにはお土産のビネガードリンクをこっそり渡しました。

 

 

色々歩いてよさそうなものを選んだつもりではありましたが、もっとよい物がなかったかなとこの時の事を顧みて思います。

 

この日からの1週間については日記を記していないので、どのような生活をしたか記憶にはないのですが、再び日記を書き始めるのは、10月第1週の仕事を終えた10月6日(土)からとなります。

 

つづく

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。