文字数:2137文字(原稿用紙約5枚強)

 

※おことわり 今回の記事は長いですのでご了承ください。

 

数多あるブログの中からご訪問いただきまして、誠に有難うございます。

私の略歴はこちらです。

 

 

1991年(平成3年)3月、第5福久丸での航海を終えて帰郷した父は、親戚宅や友人達、近所の人達等へお土産や分け魚を配りながらの挨拶回りを一段落させると、今度は出漁準備のために再び静岡県焼津港へ向かう事になり、県内に住む父の弟である叔父の家に帰郷の挨拶を兼ねて車で行き、そこからは新幹線を乗り継いで向かいました。

 

向かったのは3月10日前後ではなかったかと思いますが、今度の航海は前の航海とは違って南アフリカのケープタウン沖を操業する事となりました。

 

4月に解禁となるミナミマグロの漁期に合わせて、船を出港させなくてはいけなかったものの、休暇をとって4月に入ってから出港しては他船に後れをとってしまいます。

 

そこで会社は船体整備を急いで行い、船を専門の回航員によってケープタウンまで回航し、ケープタウンに到着するまでの約1か月を乗組員たちの休暇に充てる事にしました。

 

このような形での航海は父にとって初めての事でしたが、船を外国の港まで専門の回航員の人達が回航させる事は昔はよくあった事で、回航員を雇わなければならない分だけ人件費はかかったものの、効率的な操業を行う事はできました。

 

第5福久丸は3月16日に焼津を出港する予定だったため、それに合わせてドックからの下架と試運転、出港準備が行われました。

 

船は専門の回航員の人と合わせて、この年の春に水産高校を卒業したばかりの乗組員が5名と、前の航海で乗り組んだ未経験の乗組員の弟さん、そして内地にいても暇で、乗っていけば回航手当がつくので乗っていく事にした板谷通信長を乗せて、3月16日にシンガポールを経由4月17日ケープタウン着の予定で、翌年春の帰港を目指して焼津を出港しました。

 

 

父は船の出港を見送ってから帰ってくるかと思いきや出港前に帰ってきましたが、その時に焼津の鰹のふりかけか何かを買ってきたのを覚えています。

 

父が帰ってきてから数日後の3月16日の事、父と私は隣の市に住む伯母(父の姉)の家に招かれて泊まりに行きました。

 

伯母の夫である伯父(父の義兄)は父が乗る第5福久丸の兄弟船である、第32福久丸(409トン)で機関長を務めており、父が第5福久丸に乗る事になったのは伯父の誘いがあっての事と言ってもよかったと思います。

 

伯父は第32福久丸での航海を終えて、偶然にも父と同じ2月28日に帰郷しており、次の航海に向けての休暇に入っていました。

 

いつもなら弟である父が帰ってきた日には伯母も駆けつけていましたが、この日ばかりは夫である伯父の出迎えのために来ませんでした。

 

その伯父の第32福久丸での航海は以下のような内容でした。

 

航海日数:465日前後(1989年11月12日~1991年2月20日頃。航海終了日は正確には不明ですが、この頃ではなかったかと思います)。

操業回数:309回。

操業海域:大西洋(アンゴラ、アビジャン、中部)、ケープタウン沖。

寄港地:ケープタウン他。

漁獲トン数:不明(※運搬船には3回くらい漁獲物を転載しているかと思います)。

水揚金額:3億9,000万円(※それくらいだったと聞いた記憶がありますが、正確には不明で、本精算ではもうちょっと良い数字は出ていたのではないかと思います)。

 

伯父の船はケープタウンに船体整備のためおいて空路帰国していましたが、当時はまだ湾岸戦争が続いていて中東上空は飛べず、この時はロンドン経由で帰国したと聞きました。

 

伯父はよい水揚げをする航海が多かったものの、この航海はお世辞にもよかったとは言えない水揚げだった気もするのですが、次航海も出漁するとの事で4月12日に空路赴任するまで休みに入っていました。

 

父と伯父が会ったのは何年振りなのかわからないものの、これまでの航海の話や次の航海についての話をしたのではなかったかと思いますが、伯父は父を実の弟同様に可愛がってくれていたのだと思いますし、本心は同じ船で機関長と船長としてコンビを組みたかったのだと思います。

 

伯父の家でも父が買ったレーザーディスクのカラオケを買ったようで、この日の夜は茶の間で2歳下の従兄弟のM君も交えてカラオケをしたのを覚えています。

 

翌日の3月17日は日曜日だった事もあって、私は従兄弟のM君とファミコンをして伯母の家で過ごす事になっていたのですが、ファミコンをしているより父といたかった私は、父と父の友人であるSKさんが乗る船の出港に向かう事にしました。

 

SKさんは宮城県女川町船籍の遠洋マグロ漁船、第1明神丸(379トン)で船長か一等航海士としてハワイ南方などの西経漁場に出漁する事になっており、この出漁に際しては私の家にSKさんご夫妻と海上保安庁に勤める親友のHTさんご夫妻が集まってSKさんの送別会を行いました。

 

出漁当日は曇りだったと記憶していますが、父とSKさんは翌年春の再会を期して別れ、SKさんは出港していきました。

 

※写真はイメージです。

 

こうして父との休日を過ごした私は間もなく春休みを迎える事になるのですが、その頃にはちょっとした揉め事が起きる事になります。

 

つづく

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。