文字数:2118文字(原稿用紙約5枚強)

 

※おことわり 今回の記事は長いですのでご了承ください。

 

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1991年(平成3年)2月28日、父が約1年ぶりに帰郷してからというもの、私は学校では父が帰ってきた事と父の土産話を、自分の事のようにどこか自慢げに話していたと思います。

 

そんな話をしていると、担任だった女性のS先生が私もお土産が欲しいと言ってきましたが、真に受けた私はそれを父に伝えると、翌朝学校に行く私にこれを先生に持って行けと言ってシャネルの香水を渡してきました。

 

それは女性向けのお土産として買ってきた物の1つだったと思うのですが、何も知らない私は言われるがままにS先生にお土産を渡すと、冗談半分だった事もあってか嬉しさよりも戸惑いや驚きの方が強い感じがして、嘘から出た実になってしまった感じだったと思います。

 

S先生はそれを受け取りはしたもののさすがに悪いと思ったのか、この日の夜にS先生は私の家にお土産のお礼を伝えにやってきました。

 

思わぬ一言から私の担任の先生にもお土産を渡した父でしたが、帰郷の翌日からは親戚や友人達、高校時代の恩師、近所の人達にお土産と魚を配りながら、帰国の挨拶をする日々が続きました。

 

今までは航海が終わると、普段伯母が通勤用に使っていたトヨタのカリーナを借りていたのですが、伯母から車を借りるのは悪いと思うようになったのか、この時は私の家を建ててくれた大工さんのお宅から、日産のバネットを借りて移動に使うようになりました。

 

※画像はウィキペディア様から。上の写真のような車でした。

 

この車は私の家の車庫を貸して駐めてあった車で、現場に行く時などしか使っておらず、日常的に使っていなかった事もあって使わせてくれたのではないかと思います。

 

帰郷してからのお土産や分け魚を配って歩くのは、航海が終わる度の事ではありましたが、これまでとは違ったのは、高校時代からの親友だったOTさんがこの世にはいない事でした。

 

 

お土産や分け魚を配って歩く中で、父はOTさんのお宅も訪問してOTさんを拝みましたが、この頃はOTさんのお墓ができた時期か何かで、それに合わせて法事のような事が行われる事になっていて、その打ち合わせにも顔を出していた記憶があります。

 

それは父の帰郷に合わせてだったような話も聞いた気がしますが、そんな事もあって父はOTさんの事についても友人であるHTさんやSKさん、そしてその他のOTさんの友人達と一緒に動く事となりました。

 

父が慌ただしく帰郷の挨拶などで動いている合間には、これも毎航海終了後の恒例であった欲しかった物を買ってもらうべく私は父と模型店に行って、鉄道模型の機関車などを買ってもらいました。

 

専門店ではなかった事もあってあまり欲しいものはなく、カタログを見て欲しい物を選んで注文した記憶がありますが、私も何を選んだのかわからなくなり、お店の人も把握しきれなくなったのか、注文した物が入荷したという連絡は来る事はありませんでした。

 

準備もしないでその場で場当たり的に決めるというのは、今の自分からすると有り得ない事で、当時の私は怖がりではあったものの今ほど慎重ではなかったのだと思います。

 

こうして航海終了後の恒例行事でもあった欲しい物を買ってもらって間もなくすると、ある日の夜に父と私はHNさんという父の先輩のお宅に招かれました。

 

HNさんは父より8歳歳上で、祖母の家に嫁いできた伯母と小中学校は同級生でしたが、父が高校を卒業してすぐに乗った宮城県気仙沼市の健勝丸で一緒だった方だと記憶しています。

 

この頃は宮城県気仙沼市の遠洋マグロ漁船、第17大功丸(439トン)で操機長を務めており、この年の1月末に約1年3か月の処女航海終了後、カナリア諸島のラスパルマスから空路帰国しており、間もなく出漁する事になっていました。

 

父と会うのは3年ぶりくらいだったかと思いますが、父も航海が終わる度にHNさんがいるいないに関わらず顔は出していましたし、私もよく父について行っていました。

 

この時は奥様の鍋料理でもてなしていただき、HNさんは父と沖での話などをしながらお酒が入っていたからか私には、“お母さんなんていなくてもいいもんな”と言ってきたのを覚えていますが、世の中についてわかるようになってきた私に、母親がいなくても生きていけるよなと励ましてくれた言葉のようにも感じました。

 

また、この時知った事ですが、父は母と結婚する前にHNさんの奥様から妹さんを紹介されて1回会ったというような話を聞きました。

 

しかし、ずっと洋上にいて女性とどう接したらいいかわからなかったであろう父は、HNさんの奥様の妹さんとは進展しなかったのですが、その妹さんというのが私の小学校から高校までの同級生で、先日誕生日の記事も書いたOS君のお母様だという事を知って驚いたのを覚えています。

 

 

HNさんのお宅での時間は戸惑いも感じた時間だったからこそ今も忘れられないのだと思いますが、帰郷した挨拶回りが落ちついた頃、父は出漁準備のために再び静岡県焼津港へ向かう事になります。

 

つづく

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。