文字数:1591文字(原稿用紙約4枚弱)

 

 

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元号が昭和から平成に改元となった1989年(平成元年)1月8日、新たに乗船する事になった遠洋マグロ漁船、第26全功丸で出漁するため父は神奈川県三崎港へと向かい、1月15日の出港に向けて、試運転や餌、漁具、燃料油の積込など出漁準備を進めていく事になりました。

 

父と別れる前には、父からは今度は冬休みに帰ってくるようにすると言われ、冬休みに船迎えに行けるのを楽しみに待とうと思ったのを覚えていますが、乗船を決める際の航海予定として11か月前後という事は聞いていたのだと思います。

 

父が乗る事になった第26全功丸の漁労長を務めていたのは、熊谷忠敬(ただよし)さんという父より10歳上の方で、全功丸各船を乗り継ぎ続けてきた漁労長歴20年になる、生え抜きの大船頭でした。

 

大船頭というのは、1つの会社で長年漁労長を務めてきた人に対する敬称のようなものですが、魚を獲って結果が出せなければ漁労長を務め続ける事はできないのですから、結果を出し続けてきた人である事は確かです。

 

熊谷漁労長との事については父が第26全功丸での航海を終えてから聞いたのですが、この時に聞いたのは熊谷漁労長が同郷であるという事くらいでした。

 

父はこれまで何年も三崎や焼津、三重、和歌山、鹿児島の船を乗り継いできましたが、地元以外の船に乗って同郷の漁労長というのは後にも先にもない事でした。

 

熊谷漁労長は私の住む町から車で40分ほど行った現在は市町村合併で同じ自治体である、県境の町の方で、現在もそちらにお住まいです。

 

地元にもいくらでも船がある中で地元から遠い船に乗られていたのですが、その理由を知る事になったのは、父が第26全功丸を下船して18年経った2007年(平成19年)の事で、遠洋漁業についての地元のミニコミ誌で取材を受けた熊谷漁労長についての記事を読んだ時でした。

 

 

上の写真がその時の記事の表紙なのですが、父から何となく聞いた事がある漁労長の記事という事で面白く読ませていただきました。

 

熊谷漁労長は父とは高校も科も同じなので父の先輩でもあるのですが、高校卒業後に伯父様からの誘いで三崎港の船に乗るようになり、後に全功丸に乗船するようになって現役引退まで乗り続けられたようです。

 

私の地元の船と三崎港の船の漁労長の違いの1つは、三崎港の船は船員集めを漁労長がしなくてもいいという事で、私はそれもあって熊谷漁労長は三崎港の船に乗り続けたのではないかと思います。

 

出港の数日前には家族の元を離れなくてはいけませんから。家族と過ごせる時間は少ないですが、船員集めはしなくてもいいですのでゆっくり休む事はできます。

 

それに対して私の地元の船の漁労長は帰ってきても船員に欠員が出れば船員集めをしなくてはならず、ゆっくり休んでいる事もできませんでしたし、他の船員も造船所などに頻繁に顔を出し、休みでありながら休みでないような状態でした。

 

それを嫌って父も地元の船には乗りませんでしたし、同じ理由かどうかは知りませんが、地元以外の船に乗っている人も少なくはありませんでした。

 

熊谷漁労長も休む時はゆっくり休むべく、あえて地元の船には乗らなかったのではないかと思いますが、三崎という地元から離れた場所の船で偶然とはいえ、同郷の漁労長と父が乗船したという偶然は父の現役時代の中でも面白い出来事であり忘れられません。

 

父は理由があって第26全功丸を1航海で下りる事にはなるのですが、同郷という事もあって病院で偶然会った事もあるようでしたし、熊谷漁労長についての不満を聞いた事もなかったので、良い漁労長だったのではないかと思います。

 

そんな熊谷漁労長と父は出漁して行く事になるのですが、続きは次回書きたいと思います。

 

つづく

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。