文字数:1815文字(原稿用紙約4枚半)

 

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1988年(昭和63年)12月、物心ついて初めて父と過ごすクリスマスを迎えようかという頃、父は休んで体調も良くなったと思ったのか、父が親しくしていて第38光栄丸を紹介してくれた神奈川県三崎港にある山星船具店に船長の空きがある船を聞き、父は1隻の遠洋マグロ漁船を紹介してもらい、再び乗船する事が決まりました。

 

※画像はフェイスブックから。

 

父が乗船する事になった船は、神奈川県三崎港所属の奥津水産株式会社が所有する第26全功丸(344トン)で、1979年(昭和54年)に静岡県の三保造船所で建造された、代船建造されてもおかしくない古い遠洋マグロ漁船で、途中下船した第8光栄丸に装備してあった船舶電話の設備はありませんでした。

 

第26全功丸を所有する奥津水産株式会社は、父が前に乗船していた光栄丸と同じく三崎港では老舗の漁業会社で、かつては漁艇を搭載した母船式マグロ漁船ももっていましたが、この当時は以下の5隻を所有して、全船がペルー沖を中心とした西経漁場と呼ばれる太平洋でマグロ漁を行っていました。

 

第26全功丸(344トン)

第38全功丸(409トン)

第51全功丸(314トン)

第83全功丸(438トン)

第85全功丸(388トン)

 

父が乗船する事になった第26全功丸も出漁海域はペルー沖を予定していましたが、これまで父が約10年間乗ってきた船は、ケープタウン沖や南インド洋、地中海、大西洋など荒天海域で値が張るミナミマグロやクロマグロを狙う船ばかりだった事もあって、太平洋への出漁は第8丸共星丸での出漁以来、10数年ぶりの事だったのではないかと思います。

 

 

今回、父が久しぶりに波が穏やかな太平洋を操業する船を選んだのは、第8光栄丸でのカナダ沖での荒天の中での操業が堪えたからとも考えられます。

 

太平洋での操業は南米大陸の近くであれば補給入港する事もありますが、太平洋の真ん中のような補給入港できる島が少ない所での操業となると、補給はタンカーによる洋上補給となるため、父からは第26全功丸が船舶電話を搭載していない事もあって、次の航海は電話をあまりできないと言われたのを覚えています。

 

父の出漁が決まり、父と過ごせる時間が残り少なくなっていく中で私は物心がついてから初めて父と過ごす正月を迎えましたが、後に父は陸で過ごす正月はあまり好きではないと言っていました。

 

当時はいとこ達も皆子供で、お年玉をやったりしなくてはいけなかったり、祖母の家は神社という事もあって慌ただしくて煩わしい事が多かったからではないかと思いますが、当時の私はそんな父の気持ちなど分かるはずもなく、父と過ごせる正月を嬉しく思っていました。

 

父と迎えた1989年(昭和64年)の正月ですが、この年の正月は昭和天皇の病状がよくなかった事もあり、この年の正月は日本全体に重苦しい雰囲気が漂っていた記憶があります。

 

いとこ達との楽しい時間も終わると、父は親戚や友人達、近所の人達への挨拶回りをすると共に、荷物を送ったりして出漁に向けての準備を進めていき、1月7日に横浜の親戚宅に行き、翌日三崎に向かう予定にしていました。

 

新幹線の接続駅に乗り換えなしで行ける快速列車に乗るべく準備をしていると、テレビのニュースからは昭和天皇崩御の報が流れてきて、それを見た父は何故か今日は行くのを止めたと言って、翌1月8日に直接三崎に向かう事になりました。

 

1月8日は曇り空で、親戚と一緒に前日乗る予定だった快速列車で向かう父を駅まで見送りに行き、私が淋しく思っていると思ったのか親戚の伯母は、6歳離れた従姉妹と私を買い物に連れて行ってくれたのを覚えていますが、その時に従姉妹に買うようにお願いしたCDが、当時好きだったTM NETWORKの“CAROL”というアルバムで、この日の事は今も忘れられません。

 

 

第8光栄丸での出漁の時は休暇が短かった事もあって、父が行く時になっても淋しさが消えず、心が決まらないままでの別れとなりましたが、今回は約2か月父と過ごせた事もあったのか、当日朝は淋しく思って涙ぐんだものの、私としては珍しくほとんど泣かずに父を見送る事ができた記憶があります。

 

三崎へと向かった父は今回も父の兄である伯父と横浜の親戚の同級生で、魚市場関係の仕事をしていたOSさんのお宅に泊まりながら出漁準備を進めていく事になります。

 

つづく

 

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