文字数:2646文字(原稿用紙約6枚半)

 

※おことわり 今回の記事は非常に長いですのでご了承ください。

 

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今日は東京裁判でA級戦犯に指名され、絞首刑となった元首相の広田弘毅の命日で、この記事の更新時間は絞首刑が執行された時間です。

 

 

広田弘毅の命日という事は、他にも絞首刑となった東条英機などA級戦犯6人の命日でもありますが、今回は個人的に好きな広田弘毅について書きたいと思います。

 

広田弘毅については近現代史について好きになった事で知りましたが、好きになったのは、城山三郎さんが広田弘毅の生涯について書いた“落日燃ゆ”を読んでからでした。

 

 

この本を初めて読んだのは2005年(平成17年)頃ではなかったかと思いますが、新卒で勤めた会社で辛い時を過ごしていた2006年(平成18年)か2007年(平成19年)の年末の帰郷時に帰りの電車で読んで、感ずることが多々あったのを覚えています。

 

“落日燃ゆ”は広田弘毅を好意的に描き、悲劇の外交官というイメージを創った本であるようにも思いますが、一方では外務省時代の部下や日本政治史を研究されている学者の中には、彼を批判している方もいらっしゃいます。

 

彼が東京裁判で問われた罪は多くありますが、罪を問われたのは首相として侵略戦争の共同謀議に係わり、軍部を抑えきれなかった事に対するものだと認識しています。

 

今ほど知らなかった時は、東京裁判で裁かれた戦争犯罪人は悪いと思っていましたが、“落日燃ゆ”を含めて東京裁判等についての本を読むと、勝者による一方的な裁きで、必ずしも戦争犯罪人が悪かったとは言えず、連合国が植民地などでやってきた事を棚に上げている所もある、公平性を欠く裁判だと今は思っています。

 

確かに中には非人道的な事をした人もいますが、それとて戦争という狂気の中ですから、その狂気から覚めた裁判で犯罪だと言われても、当の本人として職務としてよかれと思ってやった事を後になって罪として問われるのは、後だしジャンケンをされるようなものかと思います。

 

特にBC級戦犯と言われるような人達はその犠牲者と言ってよく、やりたくはないけれどもやらなければ自分がやられるから仕方なく人を殺めたという人も少なくないと思います。

 

広田弘毅も共同謀議の罪に問われはしたものの、彼が戦争に反対して平和への道を模索し続けたのは事実で、それでも軍部を抑えきれなかった結果責任を罪として問われ、その代償として命を落としたという事かと思います。

 

ただ、これとて酷な話であり、広田弘毅の絞首刑が正当で肯定されるなら、自分の人生をどうにも出来ず社会に適応できていない私とて罪人であり、仕事で一生懸命やっても結果を出せない人や、会社経営に失敗した人も皆罪人になってしまいます。

 

そう考えると東京裁判というのは勝者の論理に基づく裁判であり、正しいか否かではなく、勝てば官軍だという事を敗者である日本に教える裁判のようにも思えます。

 

私は“落日燃ゆ”を通して広田弘毅が好きになった1人ですが、私が彼から影響を受けたのは以下の3点があります。

 

1.自らに計らわない生き方。

 

これは広田弘毅の生き方や人柄を知る上で1番大切な事と言ってもよいと思います。

 

広田弘毅は東京裁判においても自己弁護は一切せず、罪状を否認する事すら拒もうとしたという事ですが、彼は自分が何か話す事で他の人を陥れる事になるのを嫌っていたそうで、そのような生き方は、自分のために人にお願いしたり迷惑をかけるのが嫌いな自分には共感できる生き方であり、私も自らに計らわない生き方をしたいと思うようになり、今に至っています。

 

2.物来順応(ぶつらいじゅんのう)。

 

これは広田弘毅がよく揮毫した、向こうが来るがままに応ずるという意味の言葉で、自らに計らわない生き方故かとも思いますが、私もそのような身の施し方をしていく人でありたいと思うようになり、それは今も意識しているように思います。

 

たとえば、ブログを含めて私は自分から積極的に人にアプローチしたりはしませんし、相手が私に興味を持ってくれたり好意を持ってくれるならそれに応ずるという対応が、損得を考えたり欲深くなったりせずにすむ、人と良い距離感を保つ対応だと思っています。

 

それは自分の欲や損得で動くと失敗しやすいためでもあり、受け身の姿勢ではありますが、その方が相手に迷惑をかける事もなく、余計な事で悩んだりせずに済むので自分には合う対応の仕方ではないかと思っています。

 

3.風車 風が吹くまで 昼寝かな。

 

これはオランダ公使として赴任する時に詠んだ句で、オランダ公使は外交官として上がりのようなポストでしたが、彼はそこで自分にとって良い時機が来るのを待ち、その時に向けて準備しようと思って詠んだのだと思います。

 

人間、生きていると不遇な時を過ごす時もあり、そんな時は腐りそうにもなりますが、そんな時は自分にとっての良い風が吹くのを待ち、その来たるべき時に向けて焦らず力を蓄得る事の大切さを説いているようで、自分にとってつまらないと思える時は、このような心境を大切にしたいと思い、好きな句になりました。

 

 

以上が広田弘毅から影響を受けた点で、その根底にあるのは自らに計らわないという姿勢かと思いますが、広田弘毅は皮肉な事にその姿勢が裏目に出て絞首刑になったようにも思います。

 

彼は戦争犯罪人として起訴されて絞首刑になったものの、冤罪で死刑になったようなものですし、平和な時であれば優秀な外交官として活躍して定年を迎え、余生を幸せに送る事もできたでしょう。

 

また、彼は東京裁判の最中に奥様が自死されていますが、それは裁判の結果を楽観しておらず、いざという時に夫である広田弘毅の生への未練を残させないようにするためのものだったそうで、これだけ最期まで相思相愛だった夫婦が戦争という運命の悪戯で、その幸せな時間を終わらせなくてはならなかった事もまた悲劇かと思います。

 

彼は自らに計らわなかった事で、時代と多くの人にその運命をもてあそばれたようにも思いますが、私はその生き方はそう真似できる事ではないからこそ憧れもあり、その生き方は尊敬できるものでもあります。

 

不本意な形で世を去って丸73年、そちらには奥様をはじめ多くの人がいらっしゃるかと思いますが、こちらで辛い思いをされた分、その辛さを忘れるくらいに幸せであり続けてほしいと思います。

 

おわり

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。