文字数:1827文字(原稿用紙約4枚半)

 

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神奈川県三浦市の母船式マグロ漁船、第8丸共星丸(499トン)を下船してからの父は、それまで出漁していた南太平洋から、脂身が多くて高値で取引されるミナミマグロをインド洋で追う漁船を2隻乗り継いでいく事になります。

 

第15日光丸(314トン・静岡県焼津市) 1978年(昭和52年)~1979年(昭和54年)

第28三徳丸(254トン・静岡県焼津市) 1979年(昭和54年)~1980年(昭和55年)

 

この頃乗った船についてもよかったような話は聞いた事がありませんが、この頃になると航海は長期化して1航海は1年前後が普通となり、第28三徳丸は1年4か月の航海になりました。

 

父は第15日光丸を下船後に見合いをして、水産高校の時の恩師に仲人になってもらって9歳下の母と結婚するのですが、父は船長をしていて三男という事で、結婚条件としては悪くなかったのではないかと思います。

 

父は結婚してからしばらくすると、1979年(昭和54年)7月に第28三徳丸で出漁し、その年の11月に私が生まれますが、名前については洋上から電報で知らせてきたとの話を聞いた事があります。

 

父が帰ってきたのは私が1歳になろうかという1980年(昭和55年)11月でしたが、子供が生まれてもすぐ会えないとか、親の死に目にも会えないというのが船乗りや遠洋漁業に従事している人の辛さではないかと思います。

 

第28三徳丸を下船したのは、航海が長くて稼ぎにもならなかった事が原因ではないかと思いますが、下船後に父は祖父からの遺言で相続した土地に2階建ての家を建てました。

 

 

※上の写真は東日本大震災で流失した自宅跡付近です。

 

その土地の向かいには大工さんが住んでいた事もあって、その方に頼んで建てていただきましたが、建坪で60坪くらいだったと記憶しています。

 

1階は茶の間と台所、神棚がある和室と座敷と奥座敷(各8畳)と4畳半の部屋に風呂とトイレがあり、2階には2部屋がある黒い屋根瓦の和風の家でした。

 

 

※上の写真左側の黒い屋根瓦の家のような感じの家でした。

 

この家を建てたのはいいものの、父は結婚して家は建てなくてはいけないから建てたという程度で、自分は1年のうちのほとんどを洋上で過ごしている事もあって、どういう家を建てたらいいのかわからなかったのではないかと思います。

 

一方の母は見合いで結婚して私を生んだものの、まだ25歳でどういう家がいいといった事は分からなかったでしょうし、若い母には任せておけないという事で祖母も色々と関与したのではないかと思います。

 

家を建てはしたものの、どういう家がいいというイメージがないまま建った家だったと思いますので、最低限のものはあるものの風呂場にはシャワーがありませんでしたし、トイレは和式で水洗ではなく(注:この頃に私の住んでいた地域では、簡易水洗の家はありましたが、水洗トイレだった家はありませんでした)、2階に至ってはどうしたらいいかわからないため、床は板張りのままで壁は土壁が剥き出し、クローゼットというか押入れの位置は立っている柱でわかるという状態で完成という事になりました。

 

家が建ってから間もなくして父と母は離婚しましたが、母も私同様に感じやすいのか暮らしていて不気味だったと話していて、家が建った所は家が建つ前は雑木林のようになっていたお墓があった所だった事もあって、母はそれ故に何か感じる事があったのではないかと思います。

 

その一方で海と駅、学校には近く、日当たりもいい場所ではあったのですが、盛土になっていた所のために地盤が弱く、同じ地域での地震でもダメージが大きかったようで、身内では私の家は地震の通り道とも言われるようになりました。

 

そのダメージは時の経過と共に家に影響を及ぼすようになり、特に地盤が弱かった茶の間や台所、風呂場付近は地盤が沈下し始めて傾き始め、それを直すには1千万円近くかかるとも言われましたが、その家も東日本大震災では地震で玄関がとび、津波で流失してしまいました。

 

航海から戻りはしたものの、結婚した事で母との事や家の新築など、それまでとは勝手が違うようになった事で、洋上での生活しか知らないような父は陸での生活が煩わしく感じたのではないかと思いますが、そんな父も1981年(昭和56年)2月には三重県の遠洋マグロ船で、初めて大西洋に出漁する事になります。

 

つづく

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。