文字数:2575文字(原稿用紙約6枚半)

 

※おことわり 今回は長いですのでご了承ください。

 

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今日11月25日は阪神タイガースなどで活躍され、後に監督も務められた岡田彰布さん、そしてDJとして活躍されている赤坂泰彦さんの誕生日であり、三島由紀夫さんが亡くなった日でもあります。

 

①岡田彰布さん

 

 

私は岡田さんが阪神タイガースのクリーンナップとして活躍されていた1986年(昭和61年)に小学校に入学しましたが、その頃の私は選手名鑑を見るのが大好きで、選手名鑑で私と誕生日が近い選手を探していたら見つけたのが岡田彰布さんで、それ以来忘れられずにいます。

 

 

②赤坂泰彦さん

 

 

赤坂泰彦さんを初めて知った時の事は今も覚えていますが、初めて知ったのは1993年(平成5年)4月1日(木)で、この日から新番組が始まるというので何となくラジオをつけて聴いたのが、この日から始まった“ミリオンナイツ”でした。

 

そのオープニングで、前日まで放送されていたのが“EARステーション~耳の穴”という番組だったので、今度は鼻の穴にしようかと思ったという話をされたのを今も覚えていますが、初回放送を聴いてとても面白かったので、それからというもの月曜から木曜の22時はミリオンナイツを楽しみに聴く生活を送る事になりました。

 

番組が始まった最初の頃に赤坂さんが自己紹介をされて、その時にお誕生日が11月25日だというのを知って今も忘れられずにいますが、自分と誕生日が一緒でなかったのを残念に思ったのを今も覚えています。

 

“ミリオンナイツ”を夢中になって聴くようにはなったものの、当時は家にFAXもなかったのでメッセージも送れず、毎日ハガキを送りましたが、葉書限定でメッセージを読む日でも読まれる事はなかったものの、ステッカーが届いた時には嬉しくて通学用の鞄にこれ見よがしに自慢気に貼ったのを覚えています。

 

赤坂さんの”ミリオンナイツ“を聴くようになった事で、金曜日22時からの同じ枠の番組にも興味をもつようになり、聴き始めたのが一時期は古田新太さんも出演されていた”ヘビーメタルボンバー“ですが、”ミリオンナイツ“を聴く事がなければ、へヴィメタルに興味をもつ事がなかったかもしれないと思うと、”ミリオンナイツ“はへヴィメタルを聴く布石だったようにも思います。

 

“ミリオンナイツ”を聴いていたのは1年くらいだったかと思いますが、今までラジオを聴き続けてきた中で、今思い返してもラジオを聴く事が楽しかった時期であり、その楽しさを教えてくれた存在として、赤坂さんは自分にとってDJの中でも特別な想い入れがある方であり、日本のラジオ界に大きな足跡を残され方だと思っています。

 

ミリオンナイツが始まった頃は33歳だった赤坂さんも今年62歳、ミリオンナイツが始まった頃は30年後など想像もつかなかったものの、過ぎてしまえばそんな時間を過ごしたようで過ごしていない気さえしますし、過ぎた時間も過ぎてしまえば夢のような時間でしかないなと思いますが、多感な一時期に楽しい時間を与えていただいた事に感謝しています。

 

③三島由紀夫さんの命日

 

 

昭和40年代に起こった出来事をあげていく中で避けて通る事ができないのが、自衛隊市ヶ谷駐屯地での三島由紀夫さんの割腹自殺かと思いますが、統監部のバルコニーから演説するその姿や映像はとても衝撃的で、一時期はその姿を見るのが怖く感じた事もありました。

 

割腹されるまでに何を想い、どんな想いで旅立ったのかと思うと、その心中は私にはとても想像できるものではなく、その心中を察すると心苦しくもなりますが、その時目に映っていたであろう澄んだ冬の青空は、三島さんの純粋な想いそのものにも私には感じられます。

 

私は三島さんの本は“仮面の告白”しか読んだ事がないのですが、物事の描写力が凄くて日本語の使い方がとても美しく、それまで読んできた作家の文章は何だったのかと感じるくらい衝撃的でした。

 

上手く喩えられないのですが、三島さんの文章は文章にする対象をニードルでひっかいて、より鮮明に浮き上がらせているようでもあり、三島さんの文章を読んだ事でそれまで読んできた文章は全て凡庸にすら感じられ、本当に物事をはっきりとわかるように描写するという事は、このような事だと教えられたような思いがしました。

 

私は三島さん以外に影響を受けた作家だと、山崎豊子さんと石原慎太郎さんがいらっしゃいますが、三島さん含めて大正末期から昭和初期にお生まれになった方々は、綺麗な日本語をお使いになるように思いますし、その表現力なども現代の作家が及ぶものではないように思います。

 

三島さんの文学界における功績は、ノーベル賞候補になった事からも多くの人が認める所ではあるものの、市ヶ谷駐屯地で自衛隊に決起を促した行動は賛否が分かれるかと思います。

 

総監を拘束して幕僚らを斬りつけた行動は許される事ではありませんが、国の将来を憂うその純粋な想いは無下に否定できるものではなく、方法を間違ったのだと思いますし、このような事を起こさなかったら、三島さんの生き方はどのようになったのだろうかとは思います。

 

何が三島さんをあのような行動に駆り立て、何故にあのような行動をとったのかについては多くの見方や意見があるとは思いますし、何故三島さんはあのような行動をとったのかという思いは多くの人が今に至るまで思い続けている事かと思います。

 

ただ、それを知ろうとするには三島さんがいかに生き、何に影響を受け、どんな事を考え、どんな条件が重なったのかといった事を知らねばならず、一言で言いきれるものではありません。

 

1つ言えるのはその答えは三島さん以外の人が知り得るものではなく、亡くなった本人のその気持ちに近づく事は出来ても、辿り着く事はできないのではないかと思いますし、それは三島さんに限った事ではなく、自死された人が何故に自死したのかという事を考える時に共通して言える事でもあると思います。

 

違う世界から今の日本や世界をどのようにご覧になっていらっしゃるのかと思いますが、違う世界でも、その類稀なる描写力と表現力で多くの人を魅了し続け、影響を与え続けていらっしゃって欲しいなと思います。

 

おわり

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。