文字数:1772文字(原稿用紙約4枚半)

 

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安岡正篤(まさひろ)さんの“「こころ」に書き写す言葉”について気になった箇所を書いていますが、今回は29回目になります。

 

 

P179 欠乏礼賛 ―理想の生活

人間は多少欠乏の生活が好い。それが修養となる。

十の生活費が必要な場合に八ぐらいしか収入がないというのが一番理想だ。

 

→この箇所は私自身が贅沢を好まず、自分では物欲が少ないと思っている事もあって、自分には合う考え方で、これまでの生活を通して感じてきた事でもありました。

 

これは腹八分と同じ事で、ちょっと足りないくらいが何事もちょうどよいという、生きていく上で普遍的で大切な事を説いているのではないかと思います。

 

会社の経営者として成功された方は、お金に困らない裕福な生活をしたくてやってきたはずなのですが、お金に困らなくなるとお金を使う事も飽きるという話を何かで読んだ事があります。

 

自分が欲しいものが手に入れられる事やお金がたくさんある事は、ない人間からしたら幸せな事にも思えますが、欲しいものが全て手に入れられる事は実はつまらない事で、それは幸せではないのかもしれません。

 

物を手に入れるとかお金が手元にある幸せとは、やりたい事が全てできる幸せではなく、やりたいと思ってもできない事があるとか、たまにしかできない事があるくらいの事で、人として幸せなのは後者ではないかと思います。

 

欲しいものが手元にあって、それである程度の事をできるようになっても、幸せでないというのは矛盾しているようにも思いますが、物やお金に不自由しない事と心の充足や幸せは別で、一致しないという事なのだと思います。

 

これは昨日書いた、“律する心 ―すべては「理想を描く」ことから”の中で触れた、夢を追う中に幸せはあるという事と通じているようにも思いますが、お金や物は幸せの要素の1つではあるけれども幸せそのものではなく、何かしたい事があるとか、それができて嬉しいといった事が幸せなのであって、そのためにも生活はちょっとお金が足りないと思えるくらいがよいのだと思います。

 

お金がちょっと足りない生活であれば、そこには生活をやりくりするための知恵も生まれますし、物やお金がない事の大変さも感じますが、そういった経験は心も磨くでしょうし、たまにしか食べられないものが食べられる事や、お金を貯めて買った物に喜びや幸せを感じる事もできます。

 

そんな生活は当事者には気づけないでしょうが、実は心のバランスがとれている生活ともいえ、これくらいの生活が1番よいのだと思います。

 

安岡さんは必要な生活費が十に対して八くらいの収入がよいと仰っているのは、収入が七や六になると生活が苦しくなり、心も荒んだり卑屈になって、時によくない事を考えるからではないかと思いますが、心と生活のバランスを考えるとお金はちょっと足りないけれども生活はできるという、必要なお金が2割足りないくらいがよいという事なのだと思います。

 

安岡さんが心の修養のためにも、生活に必要なお金に対して収入は少し少ない方がいいと仰っているのは、心と生活のバランスを考えての事ではないかと思いますが、実は本当に仰りたかった事は、心と物質的な幸せは一致しないという事ではないかとも感じます。

 

これは私の深読みかもしれませんが、そう考えて読むと幸せとは何かという普遍的な問いに対する1つの答えを示されているようにも感じられ、生活をしていく上で大切なお金に対する考えに留まらない、幸せの真理を説いている言葉にも思えます。

 

この箇所を読んだ時は、慎ましやかな生活の大切さを説いている箇所で、自分も贅沢をしないように気をつけようと思ったくらいだったと思いますが、今回書くにあたって読んで考えて見ると、この箇所もまた深い事を説いていらっしゃるように思いました。

 

私が飛躍して解釈している所もあるかもしれませんが、それもまた1つの解釈であり、それに気づけた事は、この本を読む事を通して考え方が養われたからかもしれず、今回この箇所について書いた事もよい勉強になりました。

 

“安岡正篤 「こころ」に書き写す言葉”から気になった箇所の続きは次回書きたいと思います。

 

つづく

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。