文字数:1458文字(原稿用紙約3枚半)

 

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安岡正篤(まさひろ)さんの“「こころ」に書き写す言葉”について気になった箇所を書いていますが、今回は27回目になります。

 

 

P.171 新たに硎(けい)より発す ―精神を「砥石」にかける

「新たに硎より発す」とは、つまり少し錆びたり、鈍くなっておる切れ物、刃物を砥石にかけて、砥いで、新しく切れるようにすることだ。どうもこういう雑務と下らぬ習慣の中に生活しておると、我々の精神も鈍ってくる。これを砥石にかけて、新しく切れるように磨き出す。これが「新たに硎より発す」である。

 

→この箇所は本書の中で受けた影響が一番大きいと言ってもよく、その影響がこの本の印象そのものとも言えます。

 

人間の心を刃物に譬えているのは面白いのですが、ここに書いてある事はその通りで、刃物が酸化して錆びるのと、新たに抱いた思いや気持ちが時の経過と共に消えていくのは同じような事なのかもしれないと思いました。

 

これは以前取りあげた、“何のために働くのか”の中にあった、幕末の志士である河井継之助の言葉である、“志ほど世に溶けやすく、壊れやすく、砕けやすいものはない”という言葉にも通じていると思いますが、人の心を錆びつかせたり、抱いていた思いを失わせるのは世の中や日常生活なのかなと思います。

 

 

 

何のために自分が大切にしている言葉を読み返したりするのかといえば、それは自分の心を整え直したり、至らない点を改めようとして自分を戒めようとするためで、それは当たり前の事でもあるのですが、心に活力や元気がなくなり、錆びているからという方が理屈ではなく感覚としてしっくりきます。

 

それは義務ではなく、眠いから寝るとか、食べたいから食べるといった、心が求める本能的な事であり、それは刃物が錆びたから砥ぐ事と同じといわれると、感覚としてもよくわかるように思いますが、刃物は手入れをしなければ錆びるから砥ぐのは当たり前で、心も放っておけば活力や元気がなくなり、そうなった心に活力や元気を取り戻すために、大切にしている言葉に触れるのは自然な事です。

 

また、心に活力や元気を取り戻そうとする事は、大切にしている言葉に触れる事だけではなく、映画を見たりどこかに行ったり、好きな事をするといった、自分の気持ちを前向きにする事全てが該当するのではないかと思います。

 

そんな時にすっきりしたとか新鮮な気持ちになれるのは、錆びついた自分の心を研いで、日常生活でついた嫌な感情などの錆が落とされ、自分の心が綺麗になって切れ味が戻った感覚がするからだと思いますが、この箇所を読むまでは、心を磨くとか整えると言われると、真面目で堅い修行の1つのようにも思っていました。

 

しかし、この箇所を読んでからは、仕事をしていても自分の心の状態がよくないとか、冴えがないと感じた時に、自分が好きな言葉を見返したり、自分が好きな本を読む事は心を研ぐ事に思えるようになり、義務として行う事ではなく、本能的に行う事だと思えるようになりました。

 

この箇所は自分が大切にしている言葉に触れたり、影響を受けた本を読むという事に対して、それまでの自分が抱いていた意味や意義を根本的に覆したと言ってもよいですが、得心がいく事であり、この考えと出逢えた影響は大きかったと思います。

 

 

“安岡正篤 「こころ」に書き写す言葉”から気になった箇所の続きは次回書きたいと思います。

 

つづく

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。