文字数:1089文字(原稿用紙約3枚弱)

 

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安岡正篤(まさひろ)さんの“「こころ」に書き写す言葉”について気になった箇所を書いていますが、今回は26回目になります。



 

P.168.和して一 ―敵のない人 

我があるから敵があり、我がなければ敵はない。

敵とは陰陽水火のようなもので形あるものには必ず相対するものがある。しかし、我が心に形がなければ対立するものはない。従って、争うものがないから敵もない。心の形を瞬間でも忘れた静かな時が和して一なのである。

 

→この箇所は本書に書かれている事の中でも、ちょっと異質な感じがしましたが、この箇所を読んで考えさせられたのは、我がある自分の心というものでした。

 

自分に敵がいるのは我がある心があるからで、敵に相対する自分の心がなければ対立もなく、敵もないというのはもっともで当たり前なのですが、今まで気づいた事も考えた事もない深い事に感じました。

 

敵に相対する自分の心とは、相手や物事を何とかしようという欲や願望ではないかと思いますが、心の形がない時とは無欲で、先日ご紹介した六然(りくぜん)の中の無事澄然にある、何もない時は氷のように澄みきった状態ではないかと思います。

 

 

 

この箇所の最後にある、和して一という言葉は今まで深く考えた事はなかったのですが、和して一という言葉について調べると出てきませんでした。

 

和すという言葉の意味から推測すると、我がある自分の心がなくなった時が、自分とも相手とも調和して1つになれるという事ではないかと思いますが、心を忘れるというのも意識的にやっているうちは駄目なのでしょうし、人や物事と向かい合った時に無意識に自然とできなければいけない事かと思います。

 

それができるようになるのは、心を高めようとする積み重ねを通してであり、心を高める過程の中にある1つでしかないのかもしれませんが、我がある自分の心を忘れようとすればいいというものでもないと思います。

 

この箇所で説かれている事は納得できるもっともな話ですが、それを実践するとなると話は別で、自分を磨き高め続けた人間だけが到達しうる境地なのかもしれません。

 

意識して行ううちはまだまだである事は分かりますが、人や物事と向かい合った時には時に意識して行う事で、和して一になるとはとういう事かを少しでも感じて、その経験を自分の心を高める事に活かしていければよいとは思います。

 

 

“安岡正篤 「こころ」に書き写す言葉”から気になった箇所の続きは次回書きたいと思います。

 

つづく

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。