文字数:1487文字(原稿用紙約3枚半)

 

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安岡正篤(まさひろ)さんの“「こころ」に書き写す言葉”について気になった箇所を書いていますが、今回は25回目になります。

 

 

P.165 無になる ―人にほめられるようではまだまだ

中国のもっとも突きつめた哲学では、人間の意識の内にあるようでは駄目で、いわゆる無意識、無でなければならん。人にほめられるようではまだまだ駄目で、人が気づかないくらい偉くならなければいかん。こういうのが理想なのだ。

 

→この箇所は本書の中でも印象が強く、自分への影響が大きかった箇所の1つですが、前にとりあげた“無名有力”や、“健康の三原則”にある常に陰徳を積むという事に通じる考え方かと思います。

 

 

 

 

 

 

 

この考え方を読んでいるとよい事をやっても、それをやったのが自分だと気づかれるうちは、よい事をした事にもならない感じすらしますが、人に気づかれないようによい事をやり続けるというのも難しい事だと思います。

 

人に気づかれずよい事をした人というと、あしながおじさんが浮かびましたが、この箇所を読んでいると、あしながおじさんがやった事ですらよい事とは言いきれず、名が知られぬようによい事を重ねるのは簡単な事ではないと思います。

 

 

 

そう考えるとよい事をやるにもレヴェルがあって、よい事をやったのは自分だと気づかれているうちは、よい事の中では低いレヴェルとも言える気がします。

 

人に気づかれないようによい事をし続けるには、それができるだけの心や人間性も必要で、それだけのレヴェルに自分の心を高め続けようとする事で、できるようになるのではないかと思います。

 

人に気づかれないようなよい事というと、人に贈り物や寄付をしても名乗らないとか、住んでいる辺りの清掃をしても人に見られないようにするとが、職場で人が見ていない時に他の人の机をふいておくといった事が浮かびましたが、他にも気づかれないようにできる事はたくさんあると思います。

 

ただ、そういう事は行動を重ねる中で知られてしまう事ではないかと思いますが、知られるようになっても、やっているのが誰かは噂の域を出ないままわからずによい行いは続くというのが理想で、それくらい知られないようによい事を重ね続けられれば望ましいとは思います。

 

また、ほめられているうちはまだまだというのは、人や周りによい事をするだけでなく、日々自分が積み重ねている事や努力といわれる類の事も入ると思います。

 

安岡さんは本当はこちらの意味で仰っているのかもしれませんが、人と話をしている中では、そういった事が時に口をついて出てしまう事もあります。

 

自分が頑張っていると思うと、人に認めてもらいたくて人に言いたくなる事もありますが、自分が努め続けている事は一切口にせず、それが自分の人間性の成長や何かの成果として表れた時に、初めて気づかれるくらいでいいのだと思います。

 

この箇所は本当によい事をする難しさと、人としての謙虚さのあり方を突き詰めて説いているように思いますが、私は自分のやった事をアピールするのが得意でもなければ好きでもないので、私には合う好きな考え方ではあります。

 

しかし、そんな私でも時に誰かにやっている事を気づかれたいとか、自分のやった事をアピールしたくなる時もあるかもしれませんので、そうならないようにするためにも心に留めておきたい言葉です。

 

“安岡正篤 「こころ」に書き写す言葉”から気になった箇所の続きは次回書きたいと思います。

 

つづく

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。