文字数:1659文字(原稿用紙約4枚強)

 

数多あるブログの中からご訪問いただきまして、誠に有難うございます。

私の略歴はこちらです。

 

 

 

安岡正篤(まさひろ)さんの“安岡正篤 「こころ」に書き写す言葉”について気になった箇所を書いていますが、今回は20回目になります。

 

 

 

P.143健康の三原則 ―つねに「喜神」を持つこと

一、心中常に喜神を含むこと(つねに喜ぶ心を持たなければいけない)。

二、絶えず感謝の念を含むこと。

三、常に陰徳を積むこと(陰ながら善いことをする)。

 

→この箇所も心に留めて意識したいと思って付箋を貼りましたが、特に心に残ったのは3つ目の常に陰徳を積むという事でした。

 

私は善い事といわれるような事を大っぴらにする事が嫌いなので、陰徳を積むという教えは自分の考えに合った教えであり、私の気持ちを後押ししてくれる教えにも感じました。

 

そしてこの箇所を読んだ事で、善い事といわれるような事をする時には、より意識して人に気づかれないようにやっていこうという想いを新たにしたように思います。

 

また、一と二については自分が苦手で忘れやすい事なので、本書を読み直した時は目にして、その大切さを意識し直したいとは思いました。

 

一については、自分に起こる良い事も悪い事は全て必然なのだから、どんな事も喜びなさいという意味かと思いますが、良い事が起これば喜べる気持ちはあれど、悪い事について喜ぶという事は実践できません。

 

頭でわかってはいても。悪い事が起これば、真っ先に出てくるのは何でこんな事が起きるんだという、自分の運のなさを恨むような思いで、時にその状況に参りそうになったり、逃げ出したくなったりする事もありますから、それを喜ぶ気持ちになれる境地というのは、自分にはとても遠いものに思えました。

 

悪い事が起きた時に喜べるのは、そのように思える経験をどれだけしたかによると思いますし、多くの経験を重ねる事で到達できる境地なのだと思います。

 

そうだとしたら、慎重で失敗を避けようとするために経験量が増えない自分には到達しうるものではなく、頭で理解した気になる事しかできないものかもしれません。

 

二つ目の絶えず感謝の念を含むというのは、上述した悪い事も含めて日常のどんな事にも感謝するという事ではないかと思いますが、身の回りに目を向ければ感謝の念を含むことができるものばかりです。

 

体が動いて歩く事ができる、ごはんが食べられる、親が元気である、屋根がある家に住んで布団で眠る事ができる、お風呂に入る事ができる、電気やガスを使えて、家電製品が動いているなど、私が思いついただけでもこれだけありますが、挙げていけばきりがないくらないくらい感謝の念を含む事ができるものがあります。

 

ただ、日々の生活に追われると、それに対しての感謝の念を含む事など忘れて、当たり前の事にしか思わなくなってしまいます。

 

当たり前の事に感謝している場合ではないという人もいるかもしれませんが、人から何かされたら感謝するように、自分にとって当たり前だと思っている事への感謝の気持ちというのは、万物に伝わるのではないかと思います。

 

忙しい時にそのような気持ちを抱く余裕はもてませんが、1日が終わって眠りにつく前には、日々の当たり前へ感謝する事はできると思いますし、そうする事で1日を綺麗に終わる事ができるような気はします。

 

 

以上が、この箇所について私が思った事ですが、書く前は三つ目の件が印象に残っているという事を書くつもりでした。

 

しかし、一と二の件も掘り下げてみると内容が深く、書き始めたら思った以上に長い文章になりましたが、文章にするには読む以上に考えなくてはいけませんので、この箇所を何度か読んだ中でも、今回が一番考えさせられました。

 

それは今まで書いてきた本についても一緒ですが、この箇所について書いた事を通して、そんな事にも気づかされ、良い勉強になりました。

 

“安岡正篤 「こころ」に書き写す言葉”から気になった箇所の続きは次回書きたいと思います。

 

つづく

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。