すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイによる福音書4章3節)
キリスト教という宗教が何によって支えられて来たのか?
と考えると、マザー・テレサとか、キング牧師とか、古くはフランチェスコ(だいぶ古いか(笑))。
数か月前、九州の長崎と五島列島などを回って来ましたが、ドロ神父の記念の場所を見学して、祈って来ました。
この人は、フランスから長崎の寒村に定住して、人々に信仰を教えるだけでなく、産業を教えたり、技術を教えたり、医学を教えたり、母国からマカロニ製造機械を運ばせて、日本最初の「マカロニ発祥の地」だとも教わりました。
沢山の信仰の偉人と呼ばれる方々がいますが、彼らに共通している所、それは「自分の為に生きたのではなくて、人の為に生きた」という姿です。
そんな彼らの姿に思いを馳せると、自分が俗物牧師のようで、本当に恥ずかしい。
これ正直な思いです。
「石をパンに変えたらどうだ。」どうして、この言葉が誘惑なのでしょう?
多分、他人の為ではなくて、自分の為だからかなって思うのです。
イエスは、徹底的に「自分を捨てて、人の為に生きることが出来るか、どうか?」40日間の断食をしていました。
その最後になって、誘惑する者が現れるのです。
誘惑って、最後の誘惑が一番強い誘惑ですよ。多分。
神の子ですから、石をパンに変えることは出来たでしょう。
でも、それをしてしまうと、人の為ではなく、自分のために生きることになります。
自分の為に生きるということは、結局は人の世界を、神の思う通りに造り変えてしまう、あのノアの洪水のようにさえ、しようと思えば出来てしまったでしょう。でも、イエスは自分の為の働きをしませんでした。
どうして?
人を愛していたからだと思いますよ。
神が人を愛し、信用し、信頼し、人が自分たちで、神に対する信頼を深め、神に立ち返る、そのことを信頼し、忍耐して待つ覚悟を以って、石をパンにすることはなかったのです。
神が自分の為に働くことを一切拒否されて、そして人の為だけに働いた。
信仰の偉人と呼ばれる人達も、「自分の為に、自分の快楽、富、名誉の為に、生きることを拒絶しました。」
そんな姿によって、現在のキリスト教が支えられている、と考えるのは、少し、自分にも、他人にも、皮肉が込められているかもしれませんね。
自分も自分の欲望はほどほどに(笑)して、教会の為に頑張ります。