マタイによる福音書2章17

「こうして預言者エレミヤ通して言われていたことが実現した」

旧約聖書の時代、エレミヤという預言者がいました。


預言者と言いますのは、予言者とは違います。


預言者とは、言葉の通り、神様の御言葉を聞いた者が、その言葉を人々に告げ知らせる役割を担う人のことを示します。


自分が思っていることを語ることでもなく、自分の思想で語るのでもなく、ただ神の御言葉を語る務めを担うのです。


ですから、時には自分でも話したくないことを話さなければなりませんでしたし、聞く民にとって、怒りを買うこともあったと思います。


けれど、神様の言葉を曲げて語ることも、自分の都合の良いように、聞く民に都合が良いように語ることは許されていませんでした。


エレミヤという預言者が活躍した時代は、イスラエルの歴史の中でも最も苦難を迎えている時代でした。


あの栄華を極めたと言われたソロモンの時代以降、イスラエルは二つの国に分かれます。

北イスラエルと南ユダです。しかし、その後北イスラエルは200年の歴史を歩んだ後、アッシリアという国に滅ぼされ、イスラエルとしては南ユダという小さな国が残っていました。


その首都がエルサレムです。アッシリアは一時、多くの領土を手にしましたが、その後、バビロニア帝国が力を伸ばし、アッシリアを凌駕して、世界の権力を握ります。


その過程の中で、ついに残っていた南ユダもバビロニアに滅ぼされていくのです。


時代は紀元前600年頃~エルサレム陥落が前587年という時代です。


そのエルサレム陥落に至るまで、神の御言葉を語る預言者として、しかも正に、イスラエルの民にとっては聞きたくも無い、自分達の「主なる神」に対して行った、いわゆる「神の目に悪と移る行為」の数々を、エレミヤは語り続けなければなりませんでした。


その為に、イスラエルの民よ、あなた方は滅んで行くのだとエレミヤは語らなければなりませんでした。イスラエルの行為がどんなに甚だしいものであったのかを、若いエレミヤは語らねばなりませんでした。


勿論、エレミヤは尻込みしました。主に対して「わたしは若者にすぎません」と言って断ろうとしました。


けれど主は「若者にすぎないと言ってはならない」と励まし、力付け、「恐れるな」と語るのです。


そして、エレミヤに預言者として働きを促すのです。その記事が旧約聖書エレミヤ書という箇所に記されています。

人は恐れます。様々な事柄を恐れます。


言葉を人々に告げるということも大いなる恐れでもあります。


しかも、聞く人にとって、気分を害すると思われる言葉を語ることは、どんなに「恐れる」ことでありましょう。


けれど、神はそのような「恐れ」を感じる人をこそ用いて、神様の思いを告げ知らせようとします。


恐れない人間のほうが、ずっと神を信じないからです。また、自分が中心と思っているからこそ、恐れを知らないということも言えるかもしれません。

そして、このエレミヤの口を通して、御子イエスの誕生にまつわる御言葉が隠されて宣べ伝えられていたと新約聖書は告げるのです。




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