家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイによる福音書2章11節)
伝説によると、占星術の学者達の名前は、それぞれにカスバル、メルキオール、バルタザールという名前が付けられています。
恐らくその名前の由来があるだろうと思いますが詳しくはわかりません。
あるいはそれぞれが、ヨーロッパ、アジア、アフリカを代表する人達とも考えられていたようですし、その中の一人は黒人として考えられているようです。
あるいは又、学者達の一人は青年、一人は壮年、一人は老人としても考えられたりもしたようで、歴史的には実に様々な捉え方がなされています。
必ずしも聖書的に正しいという事ではありませんが、そのどれもが間違っているという事でもないと思います。
ここで何を言いたいのかというと、彼らは聖書には記されていませんが、古来から三人の学者達であったろうと考えられているということです。
その大きな理由が宝物が三つ用意されていたということからでしょう。
一人一つずつ持って来て、拝んだ。つまり幼子イエスを礼拝したのです。
学者達は10節では「星」が幼子がいる場所で留まった時、喜びに溢れました。
この喜びがクリスマスの意味です。御子がここにいる、今この私たちの所に共にいて下さる、
「主我と共に」という信仰こそがクリスマスの喜びです。
彼らは御子をひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を捧げました。この宝物には彼らの信仰が表されていると言われます。
黄金を受けるに相応しい方、それは誰よりも、「王」です。彼らはこの黄金をヘロデではなく、御子イエスに捧げました。
この方こそ、私たちの王であると証ししているということです。
偶像を王としない、この方をこそ、私たちの王として迎え入れる証しの黄金。
そして乳香はその当時、多くの祭司達が礼拝において使用されたものと言われます。つまり乳香を捧げるとは、この方こそ、私たちを神に導いて下さる方として、又人生の道しるべとして迎え入れたという事です。
そして、没薬、どうしてここに没薬が捧げられたのか?
それは十字架の主イエスを暗示するものとして考えられます。
没薬という言葉は、実はこの場面の他には、聖書には、十字架の場面しか登場してきません。
一つは没薬とぶどう酒を混ぜたものを十字架の主に飲ませようとした場面、
そしてもう一つは、アリマタヤのヨセフとニコデモという人が主の御遺体の為に没薬を持って来た場面です。
主イエスの誕生は、まさにその誕生の時から十字架への道を歩みだしたと言えるのです。
自らが神の子として歩まれる、誕生はそのつとめのスタートの時、そしてその歩みは徹底的に、私たちと共に歩まれた歩みでありました。
「東方三博士の礼拝」という名前のついた絵画が沢山あります。
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、
アルブレヒト・デューラー、
そして、レオナルド・ダ・ヴィンチ、
それぞれに15世紀前後に活躍した画家ですが、想像豊かに博士達の喜びを描き出しています。
是非、ご堪能下さい。それぞれ説明も丁寧にされていますよ。※絵画の下の
「作品解説ページに戻る」をクリックすれば、説明が読めます。是非楽しんで下さい。
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
アルブレヒト・デューラー
レオナルド・ダ・ヴィンチ