ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになったのである。(マタイによる福音書1章16節)

ついに主イエス・キリストの誕生のメッセージが記されました。


これまでのイエス・キリストの系図は、この言葉を記したいがために、延々と旧約聖書の歴史が綴られてきたのです。

 ユダヤの人はよく「頭が良い」と表現されたりもいたします。どうしてか?


 それは古代から自分達の信仰を守り抜くために、口伝によって、父から子へ、子から孫へと、自分達イスラエルの歴史と、主なる神がそこにどのように関わって下さっていたのかを、告げ知らせることを一つの教育としていたからです。


 それは、殆ど子どもが完全に暗記してしまうほどに、何度も、何度も繰り返し、繰り返し教えたのでしょう。

 だから、その子、そして、また、その子へと物語が受け継がれ、暗記されそこから歴史を学び、考えることを学び、思考することを学びました。

 

 文字としてどこまで浸透していたのかは、定かではありませんが、しかし、他の民族よりは、ずっと文字にふれる機会も多かったのではないでそうか。


 これまで読んできた、一見、私たちが見ればつまらないと思えるようなイエス・キリストの系図は、壮大なイスラエルの歴史が記され、しっかりと頭の中に叩き込まれたユダヤの民が、この系図を読んだだけで、頭の中で、パノラマ風景のように、一つ一つの物語が甦って来たのであろうと思うのです。

 

 その為にも、マタイはその最初に系図をしるしたのだと思います。

 さて、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。とあります。夫となるヨセフは、これまで記されているようにアブラハムに始まる、イスラエルの直系の系図に連なる人として、記されているのです。このヨセフとイエス様の母、マリアは結婚することになります。

 

しかし、ここで大きな疑問が生じます。マリアのお腹の子、つまりイエス様は「聖霊」によって身ごもったと聖書に記されています。ヨセフの直接の子ではないのです。ということはアブラハムから始まる血筋の中で、主イエスが誕生したのではないということでもあります。けれど、マタイはあえて、ここでこのように系図を記したのではないでしょうか。

 

 それは、これまでユダヤ人は純粋な血筋の系図を大切にして来た。それは間違いのないことであっても、しかし、主イエス・キリストの誕生は、人間的な思いの中で連なってきた血筋の大切さ、以上の大切さを持って誕生であったのだということです。

 それは、また、新しい考え方を示しているとも言えます。血筋によらない、主なる神に対する信仰という系図が誕生したという印です。だから、私たちもまた、その信仰という系図に連なることが出来るのだと、マタイは強調したかったのではないでしょうか。


 そして、その考え方がキリスト教を、世界宗教へと導いていった原動力ともなったと言えると思うのです。

 

 メシア(ヘブライ語)という言葉は、「救い主」という意味です。そしてこの「救い主」という意味が、キリスト(ギリシャ語で「クリストス」)という意味なのです。

 イエス・キリストというと、何か名字と名前のように感じている人がおりますけれども、

この意味は「イエスは救い主である」という意味なのです。最も短い、「イエス・キリスト」と話すだけで、最も短い信仰告白の言葉ともなります。

 

 その方が、どのような方であるのか、が記されているのが、「聖書」であり、「福音書」でもあります。