「朝鮮の政治社会」ヘンダーソンの著作から(9)失われたエリート・両班[1] | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

李朝は正式に四つの社会階級を認めた。

その一つは両班(ヤンパン)として知られている支配階級であって、事実上すべての政府役職を独占し、この階級出身者だけが立身出世の試験を受ける機会に恵まれた。


その二は中人(チュンイン)とよばれる少数の“中産階級“であって、政府、それも主として中央政府の下層部門に雇用される技術者、書記といった専門職集団から成っていた。


その三は常民(サンミン)、または良民または常奴(サンノム)としても知られる一般民衆(農民、商人、職人たち)であった。


第四は最下層の賤民(チョンミン)であり、門地が低く、卑賤で、下品な階級であり、奴婢など若干の階層で構成されていた。(『朝鮮の政治社会』、ヘンダーソン著、35頁)


ヘンダーソンは、公式に記述されている四つの階級を示したが、かならずしも現実の社会組織に符合しているかどうか疑わしいと書いている。


疑わしいと、はからずも考えるようになったのは、その両班階級にあった。



失われたエリート・両班[1]


両班という言葉は、一〇世紀以来、官吏の二つの階級を現わすものとして用いられた。すなわち儀式の時に王座の前に整列する文官および武官の列(パン)である。


両班はなによりもまず朝廷における書記レベル以上の役人であり、別言すればこの階級は、官僚中の将校であった。


中国から伝来した本来の理論によるとこの階級は、文官試験(後に武官試験が加わった)合格者による実力制度(メリットシステム)で、この試験は十四世紀末までに、通例三年に一度行われるようになった。


国王はとくに実績ある人、または実績あるとされる家門の人を官職に任命する権限をもっていたが、これに対し一五世紀末から政府部内で反対が多くなり(とくに監察官によって)、この恩典を受けたものは、つねに実力より低く評価されがちであった。


試験制の理論では、王家の係累のもの以外で、試験に合格したものは両班の地位を取得し、またその結果、小さな所有地から収入を得る権利を取得した。


この制度は表面上、世襲的特権を上揚し、比較的流動性に富んだ中国の実力階級のしきたりを朝鮮で再生するかに見えた。


これはおそらく当時の世界での官吏募集制度のうち、最も進んだものであって、今日近代法体系を整備することが国際的地位を高めるものであることと同様、この試験制の採用は、古代の中国を中心とした世界における李朝文化の地位を高からしめたのであった。


しかしこの官吏任用の朝鮮版は、最初から原理論とはまったく別の運用をされ、中国の官吏任用とは似ても似つかぬ方法で行なわれた。


李朝の法典は、受験資格を両班の子孫にのみ限ると規定したので、朝鮮版官吏任用制度では中国より社会的流動性が小さくなり、その制度の操作によって、王座のまわりに官邸貴族の内部派閥をつくりだす結果となった。


これら内部派閥は、より高い地位に一種の優先権をもち、新羅、高麗の王座周辺に蝟(い)集した寡頭政治制の後裔であり、ことによるとその本物の子孫であったかもしれなかった。


彼らの権利は、国王が一三九二年から一七二八年にかけて発行した二一の「攻臣」名簿にそれぞれ記載され、地位、土地(大部分は世襲土地)、報酬について特権を与えるとしてあった。


試験は彼らの若者たちを合格させるよう必要に応じて操作されたが、これは記録に残っている多数の苦情申し立てから明らかであり、なかでも有名なのは、一八一二年の反逆児洪景来の記録である。※洪景来(ホン・ギョンネ)の乱

貴族の内部派閥は、さらに監察官のような強力な統制機関内部に地位を獲得することによりその地歩を固め、かかる特権は、古代朝鮮から連綿として続いている第一級の門閥出身者だけに与えらるべきものであると主張した。


彼らはかかる機関に安住して、政府の官吏任用手続きに絶大な影響力を行吏、その力を弱めようとする企てに対しては、国王によるものであっても抵抗した。


彼らはソウルに在住して結束を誇り、派閥内部で互いに婚姻し、社会流動化を挫くことに専念した。
(『朝鮮の政治社会』、36~37頁)


原注…五六一氏という非常な多数が、一三九二年から一六〇六年までの間に、高級文官官職の試験合格者を輩出した。


このうちの七三人(13%)だけが、三つの国家高等評議会(議政府)のポストに任命された。実質在任期間を数えれば人数はもっと少なくなる。


四六氏族が同期間の各種評議会の指導的役職の56・5%を占め、わずか一五氏族が評議会役職の56%以上を支配し、一人につき平均一〇近い評議員を兼任した。


両班内部の家族中最大のもののひとつである東莱(トンネ)の鄭(てい)氏は、その期間の三三年間から三六年間にわたり最高級の役職に任命された。


安東の金氏のような数氏族は、王族との結婚によってその地位を強化した。……(54~55頁)



朝鮮において両班の地位を主張した者は、全体からすればほんのわずかで、“貴族”の名に値しかつそうであるとみなされていたものは、種としてこの小集団なのであった。


しかし身分のより低い氏族の者たちもまた、この制度をよりどころにした。試験が操作されたといっても、完全にコントロールできるものではなかったし、すべての官職を団結固き徒党のメンバーで埋めつくすのは不可能であった。両班と称する大部分の氏族は権力ある地位を獲得しては失い、失っては取り戻したが、その利害関係は階級的結束より敵対関係を生んだ。


多くの身分のより低い氏族…(中略)…より高位の官職を求めてしのぎをけずったのであった。


しかし他の“中級“両班の地位は、本来は任命によるものであったが、その後はむしろ儒教道徳の模範的具現者としての名声によるようになった。


学者、地方学園の教師、そして雄弁で朝廷に批判的な年代記の著述家たちは、身をもってその階級にふさわしい社会生活と、行動の手本を示した。


官職任用に応じて地位を高める者があったのとは対照的に、彼らは任用を拒否して異彩を放った。彼らこそは、知識階級が権力に対して一線を画するという連綿たる伝統の創始者であり、その伝統は今日の大学教授たちに引き継がれている。彼らはその数こそ、猟官運動をする連中たちにくらべればはるかに少数であったが、その意見は重きをなしたのであった。


これらの両班は一つの階層として、権力を保持する宮廷貴族の何倍もの大きさの“中層“を構成したが、しかしそれは、両班の地位を自任している数十万のもののなかでは、重要ではあったが少数派以上のものではなかったのである。(『朝鮮の政治社会』、37頁)


原住…王族は両班グループの中で異例の地位と役割を有していた。李朝の初代の王は八人の息子があり、二代目の王は一五人の息子があり、三代目の王は一二人、四代目は約二〇人の息子があった〈15世紀中葉以前のことではあるが〉ので、王族は短期的に非常な力を持つに至った。


慣習によって王族のメンバーは重要な官職にはつかなかったが、三代にわたって王族の称号を有し世襲地を与えられて、中央集権的官僚組織の中で半封建的構成分子となった。


五代が過ぎると彼らは王族ではなくなって単に李性を名のる人となった。そうすると、彼らは自由に民間の試験を受けられるようになり官職を得た。多くのものはそうした。


事実、研究が進むにつれて、王族の出である李家の人たちは、一五〇年(五世代)遅くスタートしたにもかかわらず、他の氏族の倍以上も最高の官吏の試験に合格していることが判明しつつある。しかしその比率は明らかに極端に小さかった。文官試験に及第した李姓の人は、非王族の子孫を含めても一万四千人中八百人台であった。しかも李王の息子たちは一五世紀の分だけでも七二人になる。


数学的にいえば、これらの子孫の理論上の潜在数は一九世紀中葉までに七二人から少なくも一六倍〈1450年から1850年までの世代数で〉になったと推定されるし、地球創造以来の数では数十億倍にも達するであろう。しかし残存数と再生産の率は、近親結婚や、“祖先喪失”現象などのよって少なくともこの大洪水を減少させている。


しかし、一五世紀以降の王の子孫を含めての数は、百万台にならなくとも数十万人台には達しているに違いない。李氏は今日数百万人を数えている。


だが李氏の大部分は貧困化し、多くは単純な農民となり、かつての彼らの階級と実際上の接触をなくしてしまったといったほうが無難だろう。


王族の子孫が最初に土地を下付されてから、何世代にもわたって広大な土地を保有し得たとされる積極的な証拠はほとんどない。この点に関して李家の能力はヨーロッパやラテン・アメリカの貴族のそれよりはるかに劣っていた。李氏は多数の官吏を輩出したにもかかわらず、無限に増大する人数が本質的に不変の地位を争わなければならなかったので、一般両班社会と同じように挫折したのであった。


李承晩とその一族が相続したのは、まさにこのような集団とこのような挫折であった。……(55頁)


つづく。


大韓民国の初代大統領、李承晩(イ・スンマン 在任1948~1965)を調べようとして、ヘンダーソン著『朝鮮の政治社会』を参考にしたわけである。


李承晩は、近代韓国において、反日教育を推進した大統領であり、反日教育の原点はここにあるといわれていた。


その根拠を調べようとしたら、それどころでなくなった。


朝鮮から中国。


中国からモンゴル。


古代から現代。


………


時間も空間も現代に凝縮されている。◆