こんにちは。
桜水現実(オースイうつつ)です。
オラクルの記事の前書きに、チラッと書きましたが、先日「沈黙」と言う映画を観てきました。
遠藤周作さんの原作を、マーティン スコセッシ監督が映画化したもの。
長崎、五島列島が舞台であり、弾圧中の隠れキリシタンのことが描かれています。
長崎、五島列島は、去年旅しました。
旅の途中で立ち寄ったいくつものあの信者の手作りの教会群を思い出しました。
展示されていた厚い信仰を思わせる品々も。
また、摘発に使われた「踏み絵」も。
教会が作られたのは、映画の描く時代よりも、ずっと後のことなのですが、
私の中の見たこともない失ったパズルを埋めるようにして、
この映画に出会った気がします。
☆
映画のなかで、主役のロドリゴ神父とは別に、印象的な登場人物がいます。
窪塚洋介さん演じる「キチジロー」と言う日本人。
最初に家族を裏切り、踏み絵を踏んで解放され、何度も何度も捕まっては、踏み絵を踏み、棄教すると誓い、また解放され、、、
その繰り返し。
その度に、神父の元にやってきて、懺悔し、罪を洗い流してもらう。
神父まで役人に売って、、、また懺悔し、、、
また懺悔するときは、本気で悔いてるみたいなので、すぐ騙されます(笑)
とにかくちょっと笑いとため息が出るほどに、要領よく、、、
懲りないなぁ、、、なんて。
観ている私たちは当然、他の信者と共に、平気で裏切って生きる彼を軽蔑したくなったりします。
都合よく「懺悔」を使いやがって、、、なんて、思います(笑)
でも、ふと途中から、思いました。
ああ、私はこの「キチジロー」に一番近い、と。
殉教して、死をもって、信仰を貫こうとする者がいる。
そして、一方で、こんな風に「過ち」を繰り返しながら、
何度も何度も懺悔を繰り返しながら、
それでも、やはり信仰を捨てられない者がいる。
もしかしたら、この「キチジロー」は、自分の弱さをあっさりと認め、責めながらも、受け容れているのかもしれない、と。
誰かに形だけでも「許してもらう」と言う行為を借りて、自身を許そうとしている。
「生きる」ことは決して格好の良いものではなくて、、
弾圧ではなくても、現代も、
いつも何かに囚われ、縛られ、後ろめたさを許していかなくてはならない。
そして、それを「後ろめたい」と思うかどうかは、結局自分次第なのです。
「懲りない」の繰り返し…
「信仰は、自分の中に信じるものを信じ、自分を保つためにあるのだと思う」
ある方に、そう言われたことがあります。
キチジローが、それでも尚、信仰を捨てなかったのは、そう言うことかもしれません。
私たちは確かにあの頃と比べると
平和な時代に生活していると思います。
でも、それとは関係なく、
私たち自身を縛ってくるもの、
信じるものを脅かしてくるもの、、、
それに出会います。
時に外側から批判と言う真っ向勝負で、
時に内側の恐れや不安からじわじわと…。
そう言う意味では、テーマは同じかもしれません。
誰かに、何かに、自分を明け渡すことなく生きる。
自分を信じるものを信じて生きるために、何が出来るでしょう。
そして、そこは、なんとなくロドリゴ神父の生き方が答えのヒントとなる問いかけをくれる気がしました。
今、目の前のことに愛をもって何が出来るか。
それは、「他者にとっても」ですし、「自分にとっても」です。
☆
映画のなかで、信者は、何かいつも信仰の「形」を欲しがりました。
十字架、ロザリオ、マリア像、、、
長崎でもたくさん観てきました。
私の信じるものを信じるために、保つために、
私が「お守り」としているものは、何だろう…
改めて、そう考えました。
例えば、朝の太陽。それから富士山。
それらは「沈黙」し続けていますが、
それらを目にするときの私の心は、決して「沈黙」しません。
人の心とは、なんて広大で、予測不明な場所なのだろう、、、。
何故か、最後はそんなところに行き着きました。
「沈黙」
良い映画だと思います。
映画館を出た後、光に出会えるような
お天気の良いお昼間に観てみてください☆
うつつ