落ち込んだ時は、思いっきり、ひとりで自分を甘えさせるようにしている。




ずっと飲んでいたいと思えば飲んでいればいいし、


普段は食べるのを控えている高カロリーのものをたらふく食べるのもいい。




大声で歌ってもいいし、


お風呂の中で、人の悪口をがんがん言ったり、


わがままとしか言えないことを要求してみたり。




底を打つ、という言葉があるように


底に向かってまっしぐらに突き進むようにしている。


沈むのではなく、自ら進むのだ。




で、底に何があるかというと、


怒り、悲しみ、それから、さまざまな淀んだ感情。


不健康、不健全きわまりない、どこまでも続く否定的なスパイラル。




自分ではどうにもならないことが世の中のほとんどなのはわかっているのに


楽しいとか、嬉しいとか、そう思っていたいのに、


そう思い続ける努力さえしていたはずなのに、


まるで、嬉しさや楽しさを味わった自分が罰を受けるように、嫌なことが起こったりして

何で、神様はこのまま私を浮かせておいてくれないのだろう、と思う。


責めどころのない感情がいつまでもまとわりついて離れない。




言うだけ言って、


ぐだぐだになって、


荒れるだけ荒れて、泣くだけ泣いて、


もう何一つ自分から発する元気も何もなくなったら、ぐっすり眠る。


ひたすら眠る。




部屋がきたなかろうが、


洗濯物がたまってようが、とにかく眠る。




起きたら、少しだけ嵐のように吹き荒れていたはずの感情がおさまっているのを感じる。


心の中は、まだ空虚だけど、


暴飲暴食の胃もたれや、手足のむくみや、


したまま寝てしまったマスカラの汚れや、


脱ぎ散らかした洋服や。


そして、今度は、恐ろしい自己嫌悪が襲いかかるから、


とりあえず、起き上がって、顔を洗って、コーヒーを入れて、


のろのろと無表情で「何か」を始める。




もう大人なんだから、と思っても、


悲しみや、苦しみは子供のころと同様にやってくる。


子供のころ、迷子になって、ものすごく心細くなって


この世の果てみたいに泣いたけど、


大人だってあるのだ。そういうことが。


迷子よりももっと、大きな人間関係のこととか、人の心ない一言とか


自分の愚かさからやってしまったこととか・・・




でも、子供のころ感じたそれとしょせんはたぶん一緒かもしれないと思う。


子供にとっての迷子ぐらいのことなのかもしれない。


いつかは誰かが見つけてくれて、


いつかは自分で帰り道を見つけて、結局笑い話になっている。




そう、笑い飛ばすしかないのだ。




窓を開けて、顔も洗って、すっぴんになって、


部屋を片づけて、洗濯をしたら、


ざらざらの胃に流し込むコーヒーはやめにして、


どうせ飲むなら、シャンパーニュかスパークリングを飲もう。


迎え酒でいいのだ。




勢いよく下から上にあがっていく泡は、迷いを知らない。


夕陽の映えた麦畑のような黄金色


口の中で、ちくちくとたわむれる泡


痛いぐらいに感じるのどへの刺激




痛いのも、美味しさのうちなのだ。




完全復活までにはまだまだ時間がかかる。


でも、乾杯はいつだって、「これから」と言うときに行うものだから


それでいいのだ。




瓶詰めされて、今か今かとはじけるのを待ち望んでいた


その黄金色の元気をもらおう。


痛いような優しいような、苦いような甘いようなその元気を。



photo:01