透の匂いを感じなくなった頃、

車を走らせてみた。

エンジンのガラガラ音が

多少気になったが、

桃子が働くガソリンスタンド

までなら何とか大丈夫だろう。


別人のようになった桃子の

顔を見る事を覚悟して

車をスタンドに乗り入れたのに

桃子の姿は見当たらなかった。

他の店員に点検を頼んで

休憩室でコーヒーを飲んだ。

桃子と同じ年頃の

アルバイトの女の子を見つけて

桃子の事を聴いてみた。


「立花さんは今日お休み?」

「立花さんなら早退して

教習所に行っています」

「彼女は元気にやってる?」

「おそらく拒食症でガリガリに

痩せているけど、

不思議な位元気なんですよ。

いつもテキパキと身体を

動かしていますよ。

でも、自分では拒食症だと

思ってないみたいなんです。

もっともっと痩せてキレイに

なるんだって言っています。

彼女、意志が強いから

誰も止められないんです」


痩せこけた桃子の顔を

見ないですんだ事、

そして、元気だという事を

聴いて少しホッとした。

周りから見れば骸骨のように

見えるのにもっともっと

痩せたいなんて、

まさに拒食症の症状だった。


もう一度、桃子の家に

行ってみよう。

そして、桃子の母親に

会ってみよう。

桃子に何かしてあげられるのは

やはり家族しかないと思った。

何とかして辞めさせなければ

ならないと麻美は思った。


エンジンオイルとバッテリーを

交換しただけで快適に走る事が

出来た。

湾岸道路を車の流れに沿って

加速して行くと、

透との待ち合わせ場所に

急いだ事を思い出した。

いっそこのまま九十九里まで

飛ばしてみようかと思ったが、

まだ会った事のない

「CHACO」の後姿が浮かんだ。

砂浜に座り、長い髪を

風になびかせて本を読んでいる

「CHACO」の後姿。

時々、投げかける視線の先には

波と格闘する透の姿が見えた。



麻美と透の関係だって

他人から見れば夫婦に

見えたかもしれない。

毎朝、仲良く出勤する姿は

きっと新婚さんのように

見えただろう。


それでも、二人は愛し合った

事がなかった。

心は繋がっていても、

身体が繋がった事は

一度もなかった。


麻美の心に問題がある事を

透はよく理解してくれた。

時間をかけて一緒に解決して

いこうと言ってくれた。

麻美は透にだけは正直に

何でも話す事が出来た。


本当は男の子に生まれて

きたかった事、

子供の頃プロ野球の選手に

なりたかった事、

小学6年生の時に初潮が来て

だんだん女性らしい身体つきに

なっていく事が嫌で嫌で

たまらなかった事。

中学生の頃、

胸が大きくなるのが嫌で

いつもさらしを巻いていた事。


そして、その頃、

母が再婚した。

お父さんというよりは

お兄さんという感じの人だった。

一緒に歩いていたら

友達にも羨ましがられた。


ところが、中2の夏、

酔っ払って麻美のベッドに

入って来た。

それは、母が親戚の法事で

外泊をした日の出来事だった。


麻美はその日の出来事を

母には話す事はなかった。

母を悲しませたくなかった

からだ。


バレーボールが強い

東京の高校を選び、

叔母の家から通う事にした。

あれ以来、

どんなに好きな人が出来ても

一線を越える事が出来なかった。


成人してからは、

自暴自棄になってお酒を飲んで

初めて逢った人と

容易く寝た事もあった。

翌朝、シャワーを浴びながら

後悔だけが残る。

そんな無意味な夜を

何度も何度も越えてきた。

クールな大人の女を

演じながら

心の底では愛する人と

自然に結ばれたいと願っている。


心は中学生のまま

身体だけ大人になって行く。


そんな麻美を

透は静かに見守っていてくれた。

月のように柔らかな光で

いつも麻美を照らしてくれた。


もう少し痩せて美しくなったら、

透を受け入れる事が

出来るような気がしていた。



透と逢うようになったのは、

自然の成り行きだったように

思う。

いつもファミリーレストランの

駐車場で待ち合わせをして、

どちらかの車で透がいつも

波乗りをしているという

海までドライブした。


透と手をつないで

砂浜を歩いていると、

何も知らなかった

子供の頃に戻れる気がした。


真夜中の海の家に

忍び込んで畳の上で

じゃれ合った事もあった。


透は夜空を眺めるのが

大好きだった。

いつも二人で手をつないで

夜空を見上げていた。

透は月と潮の関係や

星の名前を教えてくれた。

目が悪いせいかあまり夜空を

見上げた事がなかった麻美に

夜空にはこんなに

いっぱい星があって、

こんなにも神秘的だという事を

教えてくれた。

いつも麻美が抱えている

問題なんかちっぽけなものだと

いう事に気づかせてくれた。


そして、いつの間にか

透は麻美の部屋に

泊まっていくようになった。


手を伸ばせばいつも隣りに

透がいる。

ただそれだけでよかった。

一緒に住むようになってからは、

二人で海にドライブする事も

少なくなっていった。


透は週末だけ海に

出掛けて行くようになった。

毎週金曜日の夜中に

麻美の寝息を確認すると、

そっと腕を外して出て行った。

サーフボードは海の近くの

友達の家に預けてあると

言っていた。


透のロングボードには、

髪の長い女の子のイラストが

エアブラシで描かれていた。

小さな白いビキニを纏った

身体はとても肉感的だった。

そのイラストには「CHACO」と

横文字で書かれていた。

ボードを預けている友達が

「CHACO」だという事には

うすうす気づいていた。

「CHACO」はご主人とは

もう別れたのだろうか。

それとも、愛し合う二人には

世間の常識など関係ないの

だろうか。