長かったが良い映画だった。ネットフリックス。薄々感づいてはいたんだが、ネットフリックスで二時間の映画見るのってきついな。映画館って無理やり拘束するためにあるんだな、ってことを再認識する。ああしないと集中できない体になってしまった、現代人は。

 

ベネディクト16世が生前退位し、フランシスコ教皇が即位したのが2013年。実は2005年、ベネディクト16世が選ばれたコンクラーベの時から、この2人の因縁はあったようだ。フランシスコが予想外に健闘し、二位となっていたと。

 この映画に、バチカンの舞台裏とか、スキャンダルとかを期待する人には拍子抜けかもしれないが、この映画は結構キリスト教徒向けだ。つまり、これまで言われてきたのは、ベネディクト16世がこっちこちの保守主義者だったけど、神父の性的虐待事件(あとマネーロンダリングとか内部告発とかあったんだね)で失脚し、イメージ刷新のために改革派で南米人のフランシスコが選ばれた・・・と、その対立を煽るものだったと思う。ところがこの映画では、思想的に鋭く対立する2人が、ローマ教皇という重責を背負えないという共通の苦しみをお互いに打ち明ける中で、お互いの罪を許し、再びカトリックを再建していこうという結構前向きな物語になっているのだ。

 だから、映画の前半では、「ああなるほど、フランシスコが主人公で、ベネディクトが悪役だな」って思っていたのだが、フランシスコのアルゼンチン軍事政権時代の「罪」を告白するあたりから、2人がどんどん似ていく。一見するとベネディクトって顔が陰険で、誰からも好かれない(失礼、本人(俳優)が言うのだから)人で、その反面、フランシスコは女性や子供に優しく、いつもニコニコしている陽気な人に見える。ところが、若かりしころのフランシスコは、結構やばい。軍事政権下でイエズス会を守るために政権と交渉し、その結果、仲間たちからは裏切り者扱いされる。というか、3万人も殺されたんだ。大変な時代だ。だから、あの笑顔はそんなに軽くないんだなと。

 

 この映画の肝っていうのは、ベネディクトが「もう神の声が聞こえないんだ!」と告白するところだ。これ、日本人的には「え、教皇なのに神を信じていないって、やばいじゃん」となるだろう。でも、そこからが本番だ。「でも、この二日間、久しぶりに神の声を聞いたよ、思いがけない声だったけどね」と、政敵フランシスコと過ごした二日間を振り返る(この辺は史実とは違うんだろうな、知らんけど)。これは、フランシスコがその直前に話した、昔話に呼応している。昔から司祭になりたかったけど、いつまで経ってもお告げが来なかった、だからもう世俗で生きて、結婚しようと思った。プロポーズに向かう途中で、オルガンが聞こえてふと入った教会で、君を待っていたんだ、と、ある司祭に迎えられ告解。「ああ、これが声なのか」と悟った、と。神の声は、他人の口から聞こえてくる。

 また数年前、マザーテレサが晩年神を見失い苦しんでいたという本が出たが、それと同じように思える。普通なら「あんな聖人、教皇でも神を見失うのか」と思うところなのだが、いまやそれこそを売りにしているのだと思う。つまり、あのような人たちでさえ信仰に苦しむのだ、君たちが神に出会えないのは仕方ないよ、その悩みこそが大事なのだと、ちょっとパスカル的なM嗜好だ。つまり、カトリックが置かれている状況は、それほどに深刻なのだと思う。もう能天気にモーガン・フリーマンに頼ればいい時代ではないのだ。