これは1882年にソルボンヌ大学で行われた講演。ルナンと言えば『イエスの生涯』によって知られる、セム語文献学者?、歴史家だと思うが、この『国民とは何か』もよく知られているようだ。国民とは日々の人民投票である、っていう文句などが有名か。

 

さて、本書は講演なのでとても短い。本文自体は30ページ少々で、同じくらいの分量の解説がついて、全部で80ページぐらい。これで660円か、と昨今の文庫本の値段高騰を嘆きたくもなるが、それでも買う価値はあった。

 

ルナンが言っていることは、国民とは、王朝によって決まるのでも、人種、言語、宗教、利害、地理によって決まるのでもない。国民は同じ記憶を共有し、それを未来に向かって共に活用していく意志を持つものだ、という感じか。それだけ聞くと、まあそうだよね、とベネディクト・アンダーソンとかを読んでいる現代人は思うであろう(というか、アンダーソンら1980年代以降のナショナリズム論の根底に本書があるということだが)。

 ところが、一見普遍的に国民性という理論を語っているように見えるこの講演、実はかなりはっきりと何かに対抗しているわけだ。それはいうまでもなく、1870年の普仏戦争敗戦によりアルザス・ロレーヌ地方がドイツに奪われたことだ。ドイツに編入する正当性としては、そこではドイツ語が話され(言語)ているというのが大きかった。言語というのは人種の表徴であるとみなされていたのだ。そうではなく、アルザス・ロレーヌ地方の住民たちが、「自分たちはフランス人だ!」という意識を持っているのだから、フランスにとどまるべきだ!と主張するのだ。それは人種や言語の広がりを理由に、ドイツ(遅れてやってきた国)が現行の国境線を超えて膨張することを否定する言説だ。

 

それは一般的に、フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』(1807)に現れるような、ドイツ・ロマン主義的ナショナリズムと対置されてきた。ゲルマン民族の人種的・言語的純粋性(ラテン語を導入しなかった)を強調し、ナポレオンという普遍性に対抗する。それは100年を経て、ナチスへと結実することになるとよく言われる。一方のルナンのナショナリズムは住民の意志により決定されるもので、より開かれた、フランス共和国にふさわしいものである!このように思われてきた。

 ところが訳者が指摘するには、ルナンを「反人種主義」でリベラルなナショナリズム概念の提唱者とする通念には大きな問題がある。というのも、ルナンはヨーロッパ内部の対等な国民同士の場合には、上記の理論を適用するが、優等な国民が劣等な国民を支配するのはむしろ摂理だと肯定するのだ。彼はイスラムを「アンチ・ヨーロッパ(普遍)」であるとして、それを教化、征服する方が両者のためだと考える。さらに、中国人は労働のため、黒人は地を耕すために作られ、白人は支配する軍人として作られたと植民地支配を正当化する。

 

 さて、1882年のテクストなので、その後のナショナリズム理論の変遷を踏まえた上で、本テクストを現代においてどう読むべきかを知りたいところだろう。訳者解説ではそこが丁寧に紹介されているので、門外漢にもわかりやすい。

 ルナンの主張は言ってみれば国民というのは人種などによって規定される所与のものではなくて、常に構築し続けなければならない仮想のものなのだ、という陣営にある。そしてそれは1983年の三冊の本によって発展していく、アーネスト・ゲルナー『国民とナショナリズム』(人々が農村から都市へ流入し工場労働者になる時、共通の言語・文化が必要、それを与えられるのは国家以外にない)、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(ラテン語に代わって俗語(国語)による出版物が流通し、同胞感覚が生まれる)、エリック・ホブズボーム『伝統の創出』(スコットランドのタータン柄のキルトやバグパイプは、イングランドとの対抗関係の中で、伝統文化として創造された。「古さ」のヴェールを剥ぎ取り、国民の虚構性・構築性を証明、面白そうだな)。

 国民とは民族、伝統に根ざすのか、それとも構築された虚構のものなのか(後者はだからと言って国民性の無意味さを主張したいのではない)。その二項対立を乗り越える形で、1990年代以降にミラー、マナン、シュナペールらによって議論が展開されていく。

 

 個人的にはマナン『諸国民の理性』が面白そう。

とりわけヨーロッパでは、人類は統一に向かいつつあり、われわれはみな似たもの同士なのだという見方が支配的になっているが、マナンによれば、このような認識は他者との差異を見ようとしない意味で、かえって世界への無関心を帰結してしまう。・・・マナンの目に映じるヨーロッパとアメリカは、どちらも「民主主義の帝国」のように振る舞うことで国民国家を葬り去ろうとしている。アメリカは民主主義の中心的国民ないし守護者として、これをグローバルに伝播させようとする一方、ヨーロッパでは独仏が(もはや国民ならぬ)エージェンシーとして、「純粋な民主主義」という名の「デーモスなきクラトス」を拡大しようとしている。マナンに言わせれば、この二つの普遍主義が目指すところは「もはや集団的差異も意味も持たない世界」である。「われわれは双子のバベルの塔を建設することに夢中になって、人間集団の分離は完全には乗り越えられないこと、そしてこの好ましい無力さこそが人間の自由と多様性の条件であることが分からないのである」。(64-65)

 

これはヨーロッパで暮らした人にはよく分かる感覚じゃあないだろうか。例えばある日とある語学クラスであるスペイン人が南米人にこんなことを言った「この間面白い動画を見たよ。アフリカやアイルランドやアメリカの人たちのDNA鑑定をしてみて彼らのルーツを調べてみたんだ。そしたら「俺は黒人が嫌いだ!」っていう白人も数%はアフリカ人だってことが分かったんだ、人種はものすごく混ざっているのさ。だから僕がさほどヨーロッパ人でないのと同様に、君もヨーロッパ人かもしれないさ」。

これは彼にしてみれば、僕は人種なんてものを気にしないリベラルな価値観の持ち主ですよとアピールしているつもりなのだが、言われた方はかなり複雑な表情だった。これは二重の意味で侮辱的だったのだ。第一に、「君は残念ながらヨーロッパ人じゃないけど、大丈夫、多少はヨーロッパ人かもしれないよ」という励ましだったこと、第二に、「僕は君に流れる誇り高きネイティブ・アメリカンの血なんて、眼中にないのさ。っていうか血とか言い出したら君、差別主義者だよ」、という言外の意味(本人は意識すらしたことがないだろうが)をその南米人(女性)も僕も感じ取ってしまった。ヨーロッパ人は人種や国民性というのを無に帰することこそが(当然、第二次大戦の反省である)、リベラルな世界市民のあるべき姿だと強く内面化しており、それを無自覚に世界中に広めようとしてくる。その双子のバベルの塔(いい表現だ)の欺瞞性を暴くためにも、今、国民とは何か、ということについて考え直す価値はあるだろう。