ヴェルヌの新訳が出るとは! 知らなかったのだが、抄訳ならいくつか昔にあったらしい、いずれにしても全訳は初めて。

子供向け・一般読者向けというよりも、学術的な翻訳に思える(後書きなどを読むと、ビュトール、ドゥルーズあたりを下敷きにした、ヴェルヌの読み方が提示されている。同業者向けといえる)。

 

『ハテラス船長』は1864-65年に連載。『脅威の旅』シリーズの中では、『気球に乗って五週間』の次に書かれた初期作品。

そのせいか、随分と長い割には、特に前半は面白くない。というか、前半と後半は完全に別物だ。

 

前半は18人?だったかの乗組員を乗せて、リヴァプールを出港する謎の船の物語から始まる。なんといっても船長がいない。船長からは謎の指令が犬を通して伝えられる。このサスペンス、いいよね、『海底二万里』なんかもそうだけど、とりあえず謎から物語が始まる。

 そして謎に包まれた「船長」がついに現れ、北極点へと船を導いていく。ただ、登場シーンのかっこよさの割には、意外に統率力がない。ほとんど全員によって反乱を起こされ、船は燃え、たった四人だけが北極海に取り残される。

 この前半の物語は、1845年〜のフランクリンによる北極探検に関わるもの。北西海路(大西洋から太平洋へ、北側からいく)を発見しようとした英雄「フランクリン」たちは全員消息をたった。そして数年に渡る捜索の末、彼らが氷に閉ざされ、遭難し、最後には飢えで全滅したことが判明した。おぞましい事実は、極限状態に陥った彼らが仲間の肉を食べるに至っていたということだ。「英雄」フランクリンか? 「人肉食」のフランクリンか? このイギリス探検隊の二面性が、物語前半の肝。 主人公ハテラス船長は「英雄」側となり、副船長は「悪側」となる。ただ、同時代人にとっては面白い、ジャーナリスティックな記述だが、現代人にとってはかなり読むのがきつい。

 

 後半になると打って変わって面白くなる。仲間が全滅したアメリカ人船長を救出し、二つの力を合わせて北極へ向かう。ハテラス船長は極度のナショナリストで、アメリカ人も同様。お互いに、北極点到達の栄誉を相手に譲る気はない。しかし極地での命の助け合いが、友情を可能にする。このあたりは、『二年間の休暇』にも繋がるモチーフだろうか。ヴェルヌは誇り高きイギリス人を嬉々として描くが、そのナショナリズムの暴走にはしっかりと第三者的目線が加えられるのだ。今回は「科学者」であるドクターのおかげ。

 ところで、ハテラス船長とドクターは、ダブル主人公なんだよね。19世紀の南洋冒険では、ダーウィンがそうであったように、船長は、話し相手として科学者を連れていく。船で絶対権力者である船長は、船員と仲良くすることはない。科学者はヒエラルキーからやや外れて、船長の孤独を癒す。のちのヴェルヌでは、このドクターと冒険者が一人の人物に宿ることもある(地底旅行)し、別のこともある(海底二万里)。

 

 面白いなあと思ったのは、この微妙に完成度の低い、ごちゃごちゃした小説の中に、のちの傑作に繋がるモチーフとか、物語の枠組みが多く見られること。『地底旅行』とは、ほとんど共通の枠組みを持っているといっていいと思う。前半は現実的な紀行、一度は冒険者たちはバラバラに、極限的な状況を乗り越えるとそこには「楽園」があり、信じられないほど豊かな動物相が見られる、そして最後は「火山」。目標まで「行く」道はとても長く、あと少しで小説終わっちゃうじゃん、どう収集をつけられるのかなと不安になるのだが、そこは全て火山が解決してくれる。あっという間の帰り道。

 もちろん、地底旅行と比べると完成度に雲泥の差がある。ロビンソンものとしては『神秘の島』の足元にも及ばない。だから本書の読みは、ヴェルヌ愛好家が、どのようにヴェルヌが自己形成していったのかを見る、というところにあるのだと思う。

 というか、本翻訳は『驚異の旅コレクション』の一巻なんだね、ただし後の巻のいくつかはすでに出ていると。おそらく日本でのジュール・ヴェルヌ研究はこのコレクションを機に大きく一歩進むのだろうな。本書の後書きからは、そういう意識を感じる。