ジッドって昔はかなりよく読まれた作家らしい。還暦ぐらいの人だったら、それこそプルーストとジッドを並べて語るぐらいに。でも、プルーストは今でも新訳が出続けている一方で、ジッドはめっきり見なくなった、ようだ。

 僕も『狭き門』は読んだことあると思うけど、あとはない。なんとなく、自分勝手にこちこちのルールを決めて、恋愛を遠ざけて身悶えすることにマゾな快感を覚えるやばい奴らが出てくる、そういう変な信心深さがジッドなのかなと思っていた時期もあった。

 

 

 

でも、この『法王庁の抜け穴』を読むと、そういう謹厳居士ジッドのイメージはガラガラと崩れ去る。ジッドって純粋に、小説が上手いんや。

 

本作の出版は1914年、あの奇跡の年の翌年だ。プルーストがNRFに『失われた時を求めて』を送って、それを読んだジッドが拒否したのが1912年。『失われた時を求めて』出版が1913年で、ジッドは自分が間違っていたと認めた、それが1914年。その時に出た小説。

 でも、物語の舞台は1893年のようだ。フランスは共和制になって、カトリックの影響力を排除しようと躍起になっていた時期。そんな中で、カトリック信者の中には、フランスの共和制とローマの法王(教皇)の間で、どっちにつくべきか迷った人も多かったろう。そんな時期に、実際にあった詐欺事件が、「法王は実は幽閉されており、表に出ているのは偽物だ。法王を解放するために募金をお願いします」ってやつ。結構容易に想像つくよね。例えば今でも教皇が同性カップルに対して融和的なメッセージを発すると、「彼は法王にふさわしくない、カトリックを内部壊滅へと導こうとしている」とかいう人いるよね、多分。そうなると当然、「実はあれは偽法王なんですよ」っていう陰謀論が広まりやすくなる。

 

 それを田舎者が信じ込んでしまい、ローマまで行って単騎、教皇の救出を試みる(現代では教皇と呼ぶのが相応しいが、本書では既訳を尊重して法王と書いている)。それを揶揄うように、翻弄する悪党(僧侶に化けたり)も魅力的、ヴォートランみたいだと後書きに。

 本書の主人公は、この田舎者でも悪党でもなく、突如某伯爵の私生児であることが判明して巨額の遺産を手にする美貌の青年ラフカディオ。ラスティニャック的だとよく言われるように野心家。彼は「たまたま」例の田舎者と同じ車両に乗り込み、事件が起こる。

 ところで、昔のフランスなどでの鉄道旅行ってコナン並みに事件が起こる場所なんだよね、小説では。今とは違ってコンパートメント式だし、(本作の場合はあるけど)廊下すらないこともある。馬車をくっつけて並べたものから、現在のように一両が一つの空間、に変化していく。だから、同じコンパートメントの中にいる人が何者なのか分からなくて、ビクビクしどおし。ゾラの『獣人』と、本作はそういった意味で鉄道犯罪ものという共通点がある。

 

 本作でキーワードになるのがgratuit「動機のない」行為。普通、小説では、物事の間には論理的なつながりをつける。雨が降りそうだから、傘を買うみたいな。でももっともらしい物語を作るために、ちゃんといちいち論理的に結んでいくと、なんだかどうも逆に嘘っぽい。そうか、現実ではなんの動機もない行為が散発的に起こっているだけ、ということも多いのか! 

 一方で、陰謀論者というのは、実際にはなんの関連もない二つの出来事の間に、なんらかの「因果関係」を見出して、裏にある真実を発見していく。これってまんま『獣人』で判事たちがやっている推理小説だよね。

 だから、この『法王庁の抜け穴』はとても『獣人』的だし、反推理小説なんだよね。やっぱり20世紀に入ると小説ってすごいレベルが上がるなあと感じる。